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2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説(その1)

2022-01-31 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 1月31日(月)10時58分19秒

今月15日に実施された「大学入学共通テスト」の国語第3問は『とはずがたり』と『増鏡』を素材にしたものでした。

【速報】大学入学共通テスト2022 国語の問題・解答・分析一覧(『高校生新聞』サイト内)
https://www.koukouseishinbun.jp/articles/-/8457?page=3

『とはずがたり』は、例えば佐々木和歌子訳『とはずがたり』(光文社古典新訳文庫、2019)の宣伝広告で、

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宮廷のアイドルの 「死ぬばかりに悲しき」物語

後深草院の寵愛を受け十四歳で後宮に入った二条は、その若さと美貌ゆえに多くの男たちに求められるのだった。そして御所放逐。尼僧として旅に明け暮れる日々……。書き残しておかなければ死ねない、との思いで数奇な運命を綴った、日本中世の貴族社会を映し出す「疾走する」文学!

https://www.kotensinyaku.jp/books/book310/

などと紹介されている一種のキワモノ的な古典文学なので、『とはずがたり』が共通テストに登場したこと、そして出題された前斎宮の場面が、よりによって『とはずがたり』の中でも好色度が特に高い場面であったことは驚きです。
この場面が研究者にどのように見られているかは、例えば榎村寛之氏の『伊勢斎宮と斎王』(塙書房、2004)の記述などが参考になります。

「何しろ当時の朝廷はデカダンな雰囲気にあふれ……」(by 榎村寛之氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d5a8e905a5b10939b566c81fe360300e

私もかねてから『とはずがたり』と『増鏡』の関係に興味を持っていて、前斎宮の場面については両者を詳しく比較検討したこともあるので、受験レベルを超えた観点から、この問題を少し整理しておきたいと思います。
なお、受験レベルの解説としては、例えばリンク先サイトなどを参照していただきたいと思います。

共通テスト古文2022年増鏡・とはずがたり全訳・解答・解説(吉田裕子氏)
https://ameblo.jp/infinity0105/entry-12721435008.html

さて、出題者は異母妹の前斎宮に執着する「院」が後深草院であることを前提としていますが、戦前の『増鏡』注釈書では「院」は亀山院に比定されていました。
例えば、和田英松・佐藤珠『修訂 増鏡詳解』(明治書院、1913)では、

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まことや、文永のはじめつ方下り給ひし斎宮〔愷子〕は、後嵯峨院の更衣ばらの宮ぞかし。院〔後嵯峨〕かくれさせ給ひて後、御服にており給へれど、猶御暇ゆりざりければ、三年まで、伊勢におはしまししが、この〔建治元〕秋の末つかた、御のぼりにて、仁和寺に、衣笠といふ所にすみ給ふ。月華門院の御次には、いとらふたく思ひ聞え給へりし、昔の御心おきてを、あはれにおぼしいでて、大宮院いとねむごろにとぶらひ奉り給ふ。亀山殿におはします。十月ばかり、斎宮をもわたし奉り給はんとて、本院〔後深草院〕にも入らせ給ふべきよし、御消息あれば、めづらしくて御幸あり。その夜は、女院の御前にて、むかし今の御物語など、のどやかに聞え給ふ。
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という具合いに(p354以下)、大宮院が滞在する亀山殿に後深草院が訪問していることが明記されているにもかかわらず、以後、「院」には全て亀山院との傍注があります。(p356~362)
これは何故かというと、亀山院は『増鏡』の他の場面でも好色であることが露骨に描かれているので、異母妹に執着する変態の「院」は亀山院に違いないと思われていた訳ですね。
しかし、昭和十三年(1938)に山岸徳平が『とはずがたり』を「発見」し、『増鏡』には『とはずがたり』が大幅に「引用」されていることが判明すると、前斎宮の場面の「院」は後深草院であることが明確になった訳です。
ただ、山岸徳平 「とはずがたり覚書」(国語と国文学』17巻9号、昭和15年)を見ると、山岸は、

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 増鏡、草枕の巻に「なにがし大納言の女、御身近く召しつかふ人、かの斎宮にもさるべきゆかりありて、むつまじく参り馴るゝを召しよせて……」として、亀山院が、「なにがし大納言の女」に用件を御命じになつた事がある。この斎宮は、その頃、御上京中の、愷子内親王であつた。大宮院姞子が、この斎宮を、嵯峨の亀山殿へ御招きになり、亀山院も御列席遊ばされた。亀山院は、なほ打解けて斎宮に逢ひたいとの、御意がおありになつた。これはその際の記載である。

http://web.archive.org/web/20061006211020/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/yamagishi-tokuhei-towa-oboegaki.htm

としているので、『とはずがたり』発見後も山岸は前斎宮の場面の「院」を亀山院と思っていたことが伺えます。
それくらい『増鏡』での亀山院の好色は印象的だったのですが、戦後『とはずがたり』が周知されるようになると、後深草院が陰湿な変態とされる一方、亀山院は単なる明るい好色家、という具合いにイメージが好転した感じがします。
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