学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

野口実門下の京武者、山本みなみ氏が描く「なかなかパワフルな女性」たち(補遺)

2022-01-05 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 1月 5日(水)13時33分49秒

山本氏は『サライ』サイトで、「姫の前」についても「出逢いと別れはどう描かれる? 義時の最初の正妻、絶世の美女・姫の前―北条義時を取り巻く女性たち5【鎌倉殿の13人 予習リポート】」という記事を書かれていますが、これは『史伝 北条義時』と同じ内容ですね。

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さて、困ったのは義時である。自分の一族と妻方の一族が対立することになった。相当な苦悩があったと思われるが、親権が絶対の中世において、父親の意向に背くことはあり得ない。義時は、父時政の命令に従い、武士たちを率いて比企一族を滅ぼした。
当然、これまでのように夫婦生活を送ることはできない。姫の前は義時に離別され、3人の子を残して、鎌倉を去った。
程なく上洛し、貴族の源具親(みなもとのともちか)と再婚。翌1204年には輔通、次いで輔時を出産するが、1207年3月にその短い生涯を終えた。鎌倉を去ってから、わずか3年後のことであった。

https://serai.jp/hobby/1041312

「親権が絶対の中世において、父親の意向に背くことはあり得ない」というのはどうにも変で、義時と政子は二年後の「牧氏の変」で時政と牧の方を鎌倉から追放しますから、少なくとも義時と政子にとっては「親権が絶対」ということはないですね。
なお、山本氏が紹介されている、

【北条義時】ヨシトキ君の恋バナ聞いちゃったよ!【鎌倉国宝館×鎌倉歴史文化交流館】
https://www.youtube.com/watch?v=By9xprpGJ9k

を見たところ、次のような悲しいやり取りがありました。

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とにもかくにも、ヨシトキ君は一目ぼれの人と結婚できたからハッピーエンドってことだね!
「いやいやいや、そんなに幸せな時間は長くは続かなかったんだ。頼朝様が亡くなったあと、頼朝様の長男頼家様が鎌倉殿になるんだけど、その頼家様が病気になってしまい、またまた次の鎌倉殿を選ばないと、って話になったんだ。
それで北条氏は頼家様の弟の千幡様(11歳)を、姫の前の生家、比企氏一族は頼家様の息子一幡様(6歳)を推して対立してしまい戦うことに……。僕は武士たちを率いて比企氏一族を滅ぼしたんだ」
それって、ヨシトキ君と姫の前の関係はどうなるの?
「そう、僕が先頭を切り姫の前の生家である比企氏一族を滅ぼしたんだから………。やっぱりね。離れるしか道はなかったんだ」
結婚している相手の一族と戦うなんて残酷な出来事だな。
「うん、800年経っても忘れらないよ。あの戦いのことも、姫の前のことも。姫の前との間には二人の子供もいたしね」
その後の姫の前はどうしたんだろう。
「僕と離れてからの姫の前は京に引っ越し、しばらくして貴族と再婚したらしい。幸せだったらそれでいい、幸せを願うしか僕にはできないから」
そういえば、ソレちゃんは姫の前にそんなに似ているの?
ヤッダー!
「うん、髪の毛が長くて黒いところなんて、そっくりだよ!」
そこ!?
よし! 元気出せ! ヨシトキ君! 夕日に向かって走るよ!
「よく分らないけど、いくよ」
おー!!
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「姫の前との間には二人の子供もいたしね」は変で、実際には朝時・重時・竹殿の三人ですね。
監修者は山本氏ではなさそうです。
コメント (1)
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野口実門下の京武者、山本みなみ氏が描く「なかなかパワフルな女性」たち

2022-01-05 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 1月 5日(水)11時42分43秒

『史伝 北条義時』(小学館、2021)の「あとがき」には、

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 岡山に生まれ育った私は、歴史を学ぶなら京都に行こうという単純かつ明快な理由から京都の大学に進学した。ここから大学・大学院とあわせて、十年もの間を京都で過ごすことになる。京都では、上横手雅敬先生・野口実先生・元木泰雄先生・美川圭先生といった第一線の中世史研究者からご指導を賜った。
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とありますが(p298)、学部は京都女子大だそうですから野口実氏の影響が一番強そうですね。
また、

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 なお、小学館から刊行されている雑誌『サライ』のウェブサイトでは、政子や牧の方など義時を取り巻く女性たちについて綴った文章を連載しているので、本書と合わせて読んでいただきたい。義時周辺の人間模様が、より立体的に描けるようになるはずである。
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とのことなので、『サライ』サイトで読んでみたところ、「京都政界に人脈を誇った北条時政の若き後妻 牧の方―北条義時を取り巻く女性たち3【鎌倉殿の13人 予習リポート】」は特に面白いですね。
この記事には、

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1226年11月、牧の方は上洛し、翌年正月23日、娘婿藤原国通の有栖川邸において、時政の十三回忌供養を執り行った。供養は、娘たちのほか、国通や冷泉為家ら公卿6名、殿上人10名、諸大夫数名が出席するという盛大なもので、牧の方のもつ人脈の広さがうかがえる。
さらに、供養の後には、宇都宮頼綱に嫁いだ娘と孫娘(冷泉為家の妻で妊娠7、8カ月か)を引き連れて、天王寺や南都七大寺に参詣している。歌人藤原定家(為家の父)は、嫁の体調を心配し、日記に「身重の女性を連れて行くとはいかがなものか」と不満を記しているが、牧の方にとってはどこ吹く風、親子三世代で遠出を楽しんだようである。すでに60代と推定されるが、なかなかパワフルな女性であった。

https://serai.jp/hobby/1033821

という指摘があります。
また、「続々と京都の貴族に嫁いだ、北条時政の後妻 牧の方所生の娘たち―北条義時を取り巻く女性たち4【鎌倉殿の13人 予習リポート】」に登場する牧の方の三女について、

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三女は、武士の宇都宮頼綱(1172~1259)に嫁ぎ、女子と男子(泰綱)を産んでいる。長女と同様、政子が危篤に陥った際には、京都から関東に下向しており、姉妹の関係は良好であったことがわかる。
1233年、三女は47歳にして62歳の松殿師家(1172~1238)と再婚した。頼綱と離縁した時期や理由は不明であるが、前夫と娘に再婚を知らせる便りを送っている。中世前期は、離婚も再婚も比較的自由にすることができたから、この年齢での再婚も驚くことではない。

https://serai.jp/hobby/1036729

とありますが、「中世前期は、離婚も再婚も比較的自由にすることができた」という指摘は重要ですね。
さて、山本氏はこのように義時周辺の「なかなかパワフルな女性」たちに注目されながら、「姫の前」については、その評価はずいぶん消極的です。
山本氏は「三人の子宝に恵まれているところをみると、義時と姫の前は琴瑟相和す夫婦であったといえよう」(p91)、「彼女とは、およそ十年連れ添い、朝時・重時・竹殿という三人の子宝にも恵まれていた」(p126)などと言われますが、子供が多いことから「琴瑟相和す夫婦」と決めつけるのは現代的な「良妻賢母」的発想じゃないですかね。

山本みなみ氏『史伝 北条義時』(その1) (その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ffbb758c478c7f129d484d1f22237669
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e5c6e11caf96264bb395fc07a9ab7448

義時周辺の「なかなかパワフルな女性」を正確に認識できる山本氏が、「姫の前」に限っては森幸夫・呉座勇一・細川重男・本郷和人氏等のマッチョな研究者と同じような女性像を想定するのは、結局のところ義時が書いたという起請文の呪縛ではなかろうかと思います。
神仏に離縁しないと誓った以上、その結婚は永遠なのだ、それを破った義時は苦悩に打ちひしがれたに違いない、とマッチョな研究者たちは思い込んでいますが、起請文を書いたのは義時だけ、という一番単純な事実を忘れていますね。
ここは「中世前期は、離婚も再婚も比較的自由にすることができた」という、多くの研究者が同意できるであろう認識に戻って、起請文など書いていない「姫の前」には離縁の自由があったと素直に考えるべきです。
重時が生まれた建久九年(1198)までの七年間はともかく、義時と「姫の前」が「およそ十年連れ添」ったとの史料的裏付けはありません。
「姫の前」が「権威無双の女房」であり、鎌倉から京都に移動して貴族と再婚した「なかなかパワフルな女性」であることを考えれば、源頼朝という「かすがい」ないし桎梏が死去した建久十年(1199)以降、ある時期に「姫の前」から離縁の申し出があって、二人は離縁した、と考えるのが自然です。
そして、その時期が早ければ早いほど、義時の心理的負担は減少し、比企氏の乱で率先垂範して比企邸に殴り込みをかけることができたはずですね。
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