学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

星倭文子氏「鎌倉時代の婚姻と離婚」(その4)

2022-01-26 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 1月26日(水)13時14分15秒

続きです。(p266以下)

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 当時執権となった武州・北条泰時の娘が、相州・北条時房嫡男四郎朝直に嫁す記事である。朝直は当時二十歳、すでに妻がいた。愛妻とは、伊賀朝光の息子光宗の娘である。朝直は泰時の娘との婚姻を断るが、父母は婚姻を熱心に勧めている。この婚姻は、武家家長である父親同士により決定されるものである。父は北条時房であり、母は安達遠元の娘という説もあるが定かではない。時房は初代の連署に就任しており、泰時の叔父にあたる。「承久の乱」では共に上洛し六波羅探題になるほど泰時を補佐し良好な関係にあった。一方、伊賀朝光の息子光宗は、妹が北条義時の妻となっており、妹の義時の間に政村がいた。光宗は、元仁元年(一二二四)に妹の義時妻と共に将軍藤原頼経を廃して義時の女婿である藤原能保の息子・実雅を将軍にたて、北条政村を執権に就かせようとした「伊賀氏の乱」が失敗し、信濃国に配流されていた。その光宗の娘が正妻であり、愛妻であったことから、朝直は泰時の娘との婚姻を渋る。
 この婚姻を熱心に勧めた朝直の父である時房にとっては、すでに執権となった泰時の娘との縁組みは望むところであったろう。北条本家の娘が庶家に嫁すということは、泰時にも時房への懐柔・同盟強化の意図があったものと考えられる。朝直は光宗の娘との別れを悲しみ、出家も考えるが結局はそれも叶わず、光宗の娘とは離別し、泰時の娘を妻に迎える。父親への抵抗は出家をすることであるが、それはできず、そこには確かに家長の強大な権限が見て取れる。
 朝直は、光宗の娘との間には子供がいなかったが、泰時の娘との間には時遠・時直をもうけている。しかし、時期は不明であるが泰時女は朝直とは別れ、後に北条光時と再婚した。
 朝直の婚姻について、高群氏は、一族の家長の威迫と述べているが、双方の思惑が一致したためと考えたい。【後略】
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「光宗は、元仁元年(一二二四)に妹の義時妻と共に将軍藤原頼経を廃して……」とありますが、僅か三歳で鎌倉に下った頼経は直ぐに征夷大将軍となった訳ではなく、宣下は嘉禄二年(1226)正月二十七日ですね。
『吾妻鏡』では同年二月十三日条に、

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佐々木四郎左衛門尉信綱自京都歸參。正月廿七日有將軍 宣下。又任右近衛少將。令敍正五位下給。是下名除目之次也云云。其除書等持參之。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma26.5-b02.htm

とあります。
その他、この時期の泰時と時房の関係が「北条本家」と「庶家」と固定化していたのかを含め、星氏の武家社会理解には多少の疑問を感じるところがありますが、とりあえずそれは置いておきます。
さて、伊賀氏の乱で実家の後ろ盾を失い、離縁を余儀なくされた光宗の娘は気の毒ですが、そうかといって新しく朝時の正室となった泰時娘が幸せだったかというと、そうでもなさそうですね。
朝時との間に「時遠・時直をもうけ」たものの、「時期は不明であるが泰時女は朝直とは別れ、後に北条光時と再婚した」訳ですから、結局は元妻に未練たっぷりの朝時とは上手く行かなかった訳で、朝時の再婚は誰一人として幸せにしない残酷なものだったということになります。
そして、朝時と泰時娘の間に二人の子供がいたとはいえ、それが決して夫婦間が円満であったことの証拠ではないという事実は、山本みなみ氏によれば「およそ十年連れ添い、朝時・重時・竹殿という三人の子宝にも恵まれていた」義時と「姫の前」の関係を考える上でも参考になりますね。

山本みなみ氏『史伝 北条義時』(その2)(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e5c6e11caf96264bb395fc07a9ab7448
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/babd1dd5ca102ffbaab5d68f32abce50
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星倭文子氏「鎌倉時代の婚姻と離婚」(その3)

2022-01-26 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 1月26日(水)10時33分7秒

前回投稿で引用した部分の続きです。(p264以下)
先行研究を踏まえた星氏自身の課題設定ですね。

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 鎌倉期の婚姻形態や婚姻決定権などについては、実態に即した実証的研究が少ないのが実情であるので、小稿では、藤原定家の『明月記』を素材として、中級貴族である藤原定家の見た婚姻について検証してみる。『明月記』は治承四年(一一八〇)から嘉禎元年(一二三五)、定家十九歳から七十四歳までの日記であり、そこには女性たちについての様々な記述がある。特に嘉禄年間(一二二五~二六)には、婚姻や男女間のことをめぐって興味深い記述が多い。ゆえに、短い期間ではあるが、小稿では先行研究を踏まえながら嘉禄年間の記述を主に、婚姻の決定権について武家と公家の違いや、婚姻・再婚の実態から見えてくるものを、そして離婚における女性の意思についても検証することとしたい。当時の離婚は家の形成にとって重要な役割を果たしていた。したがって、家族史研究にもささやかな寄与ができうるものと考えている。なお、『明月記』に関しては年月日のみをしるすこととする。
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嘉禄年間に着目された理由を星氏は明確に述べておられますが、この時期が承久の乱後の、まだまだ政治的・経済的、そして精神的混乱が続いている時期であることは留意すべきでしょうね。
承久の乱の戦後処理については多くの研究者が「前代未聞」「未曾有」「驚天動地」といった最大級の修飾語を工夫していますが、とにかく全ての価値の基準である天皇が廃位され、「治天の君」を含む三上皇が流罪となったのですから、従来の倫理秩序も動揺しないはずがありません。
朝廷は直属の軍事組織を失ってしまい、そうかといって幕府が責任をもって京都の治安維持を約束してくれた訳でもないので、強盗の横行など、社会秩序も乱れに乱れます。
こうした中で、結婚や夫婦間の関係についても当然に価値観の変動があったはずですね。
従って、『明月記』の嘉禄期の事例をどこまで一般化してよいのかという疑問はつきまといますが、全体的に記録が乏しい中で、やはり『明月記』の存在は貴重です。
さて、(その1)では「時房朝臣の子次郎入道の旧妾」であり、藤原公棟と再婚したものの、大酒飲みのために一か月で離縁となった「新妻」の例を紹介しましたが、優れた政治家とされている時房の周辺は、家族や夫婦の関係ではけっこうな騒動が多いですね。
まず「次郎入道」時村は承久二年(1220)正月十四日、弟の資時とともに突如として出家してしまいます。
兄弟二人一緒に出家というのは何とも異様な感じがしますが、これは『吾妻鏡』にも、

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相州息次郎時村。三郎資時等俄以出家。時村行念。資時眞照云云。楚忽之儀。人怪之。


と記されていますね。
その後、時村(行念)は親鸞との関係があったようですが、出典は宗教関係の史料なので、どこまで信頼できるのか若干の問題がありそうです。
ただ、出家しても女性関係は変わらないという点では、いかにも浄土真宗っぽい感じはしますね。

北条時村(時房流)

そして星論文では、「2 婚姻の成立と家長の力」に入ると再び時房の四男・朝直の事例が出てきます。

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  1 武家の場合

 『明月記』の嘉禄年間に記された婚姻の記述には、武家と公家では家長の関わり方に違いが見える。辻垣晃一氏は、平安時代末期から鎌倉時代初期の婚姻形態について、重要なのはどこで婚姻儀式を行ったかではなく、婚姻の開始はどういう形式であり、誰が婚姻儀式を差配したかという点である、と指摘している。
 ここでは婚姻の決定過程に武家と公家の違いがあるのか、またある場合は何が違うのかを検証していきたい。第一に取り上げるのは、定家が関東の婿取りのこととして注目している、北条泰時の婿取りである。

(1)嘉禄二年(一二二六)二月二十二日条
  関東執婿の事と云々、武州の女、相州嫡男<四郎>・朝直に嫁す。愛妻<光宗女>があるにより、
  頗る固辞すと。父母懇切に之を勧めるによると云々。
(2)嘉禄二年三月九日条
  武州婚姻のこと、四郎<相州嫡男>猶固辞する。事已に嗷々と云々。相州子息惣じて其の器に
  非ず歟。出家の支度を成すと云々。本妻の離別を悲しむに依るなり。公賢朝臣の如きか。
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この後の説明がちょっと長いので、いったんここで切ります。
時村・資時の出家により朝直が嫡男とされていたようですが、その朝時まで出家してしまったら時房の権威は丸つぶれ、目も当てられない事態ですね。

>筆綾丸さん
本郷和人氏も重視する比企能員のカモネギ的行動ですが、『吾妻鏡』の記述をどこまで信頼できるかという問題がありますね。
ま、疑い出したら本当にキリがありませんが。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

能員というカモネギ 2022/01/25(火) 18:00:27
小太郎さん
離婚が家と家との結合の破綻であるとすれば、姫の前と義時が離婚したあとなのに、能員は義政の招きに応じて、まるでカモネギのように(六代将軍義教が鴨の子に誘われて赤松邸で殺されたように)、なぜ平服でのこのこ名越邸に赴いたのか、という疑問が残りますね。
姫の前と義時の離婚は、朝宗と義時の関係が破綻しただけで、能員と義政の関係が破綻したのではない、と能員は考えたのか。あるいは、義政の仏事供養という招きは、比企家と北条家の関係修復の絶好の機縁と考えたのか。あるいは、たんに能員は烏滸だったのか。
比企氏滅亡の話を遠く京都で聞いて、聡明な姫の前は何を思ったか、興味は尽きないですね。
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