学問空間

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大河ドラマ愛好家さんのコメントへの回答

2022-01-03 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 1月 3日(月)10時29分16秒

元旦の投稿「山本みなみ氏『史伝 北条義時』(その1)」に対して、当掲示板の投稿保管用のブログ「学問空間」で「大河ドラマ愛好家」さんから長文のコメントをいただきましたので、こちらで回答致します。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ffbb758c478c7f129d484d1f22237669

まず、

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『葉黄記』6月2日条を見ますと、葉室定嗣が顕親出家の知らせを受けたのは定通が送った使者からでした。また、6月5日に定嗣は定通と面会しています。これらの点から、『葉黄記』に記載された顕親の年齢は正確と判断してよいと思いました。それに、顕親が出家した霊山は定嗣の一族が多くいた場所です(注)。この点も、記事の正確性を示すものと思います。
(注)林譲「南北朝期における京都の時衆の一動向―霊山聖・連阿弥陀仏をめぐって―」(『日本歴史』第403号、1981年)で指摘されています。
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との点ですが、そもそも葉室定嗣とはいかなる人物かを確認しておきます。
『朝日日本歴史人物事典』によれば、葉室定嗣は、

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没年:文永9.6.26(1272.7.22)
生年:承元2(1208)
鎌倉中期の公卿。承久の乱(1221)の首謀者として誅された権中納言藤原光親の子。母は参議藤原定経の娘。初名光嗣,次いで高嗣,定嗣。建保2(1214)年叙爵。但馬守,美濃守,蔵人,弁官を歴任し,仁治2(1241)年に蔵人頭。翌年参議となって公卿に列する。摂関家九条流に仕え,二条良実の政治顧問となる。また後嵯峨天皇の側近としても活動し,寛元4(1246)年に九条家が没落すると専ら後嵯峨上皇に仕えるようになった。大蔵卿,左兵衛督,検非違使別当に任じて宝治2(1248)年に権中納言。後嵯峨上皇の第一の側近として大納言を望んだが,家格のゆえに果たさなかった。日記があり,『葉黄記』という。
(本郷和人)

https://kotobank.jp/word/%E8%91%89%E5%AE%A4%E5%AE%9A%E5%97%A3-1102018

という人で、土御門顕親が出家した宝治元年(1247)六月の時点では、前年の九条家没落を受け、「専ら後嵯峨上皇に仕えるようになった」立場です。
仁治三年(1242)の後嵯峨即位に多大の貢献をした土御門定通は、寛元四年(1246)の後深草天皇への譲位以降も後嵯峨院政において権勢を誇っていたので、その息子が出家してしまったことは貴族社会の大事件であり、土御門定通と「後嵯峨上皇の第一の側近」である葉室定嗣との間には密接な連絡の必要が生じることになります。
従って、定嗣の日記『葉黄記』は顕親出家に関する信頼できる一次史料であることは間違いなく、この点は私にも異存はありません。
しかし、この顕親出家騒動において、顕親の年齢それ自体が重要なのか。
顕親の出家時の年齢が二十六歳か二十八歳かで、出家騒動の様相が変わってくるのか、そして葉室定嗣の出家騒動に関する認識が変わってくるのかというと、そんなことは全然ありません。
定嗣は別に顕親の親戚でも何でもなく、顕親の生年に特別な関心を抱くような立場ではなくて、たまたまこの出家騒動の経緯を日記に記録するに際して顕親の年齢もメモ程度に記しただけです。
従って、聞き違い、記憶違い等の可能性は否めません。
次に『公卿補任』の信頼性についてですが、

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次に『公卿補任』に記載された年齢に誤りが多いことは、以下の例を思い出しました。
●平重盛
日下力先生 『平治物語の成立と展開』(汲古書院、1998年)
「重盛の生年については、保延三年あるいは同五年とする誤りが多い。『公卿補任』記載の年齢に混乱があるからで、『山槐記』並びに『玉葉』所引『頼業記』には、重盛の死を報じて「四十二」とあり、逆算すれば保延四年の誕生となる」
●藤原茂範
小川剛生先生「藤原茂範伝の考察ー『唐鏡』作者の生涯ー」(『和漢比較文学』第12号、1994年)
「茂範は経範の長男である。生母は不明。生年は『公卿補任』文永十一年(一二七四)条の「非参議従三位藤茂範(三十九)」から逆算した嘉禎二年(一二三六)説があるが、明らかに誤りである」
●京極為教
井上宗雄先生『人物叢書 京極為兼』(吉川弘文館、2006年)
「頼綱女との間の三男が為兼の父為教である。これも上記石田論文(引用者注:石田吉貞「法服源承論」)に周到な考察がある。すなわち『明月記』安貞元年(一二二七)閏三月二十日にみえる、為家の冷泉邸で出生した男子が為教と推定される(『公卿補任』『尊卑分脈』の弘安二年〈一二七九〉五十四歳没とある享年は非)
●豊臣秀吉
桑田忠親先生『豊臣秀吉研究』(角川書店、1975年)
「第一、天文五年説の唯一の根拠となっている『公卿補任』の記事も、いわゆる、当時における書き継ぎの記録であり、理屈からいえば誤りはまったくないはずだが、事実としては錯誤も生ずるのである。ことに、人物の姓名の下に注記した年齢にいたっては、それが、果たして何を根拠としたものか、推測に苦しむ。その一々を、当人に聞きただして書いたという証拠でもあれば、結構だ。が、そうでない限りは、伝聞によって書いたに相違ない」
たぶん山本さんは、このような点も踏まえて、『葉黄記』を優先したんだと思います。ご参考になりましたら幸いです。御研鑽をお祈りいたします!
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との御指摘を見て、豊臣秀吉まで広げても、この程度の誤記しか見つからないのか、と私は吃驚しました。
実は私も『公卿補任』の年齢の誤りについて別の例を調べたことがあります。
それは後深草院二条の父、中院雅忠についての記述です。
雅忠は文永九年(1272)に四十五歳で死んだと記されているので、逆算すると、安貞二年(1228)生まれのはずですが、『公卿補任』をずっと追ってみると非常に奇妙なねじれがあります。
即ち、正嘉三年(正元元年、1259)までは単純に一歳ずつ加算されていて、同年に三十五歳になっているのに、翌正元二年(1260)、突如として三十三歳になってしまっており、ここで三年のずれが生じます。
『公卿補任』自体に矛盾があり、雅忠は嘉禄元年(1225)生まれの可能性もあるのですが、まあ、これはある時点で誤記に気づいたということだろうと思います。

「姫の前」、後鳥羽院宮内卿、後深草院二条の点と線(その10)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e9df962f6fffa8d9a9e13f51006887b4

さて、土御門顕親の出家時の年齢について『葉黄記』と『公卿補任』のいずれが信頼できるか、という問題に戻ると、私はやはり「書き継ぎの記録」である『公卿補任』の方が信頼性が高いと思います。
既に紹介しているように、顕親が従三位に叙せられた嘉禎四年(1238)の尻付は、

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貞応元年正月廿三日叙爵(于時輔通)。嘉禄三正廿六侍従(改顕親)。安貞三正五従五上。寛喜三正廿六正五下。同廿九日備前介。貞永元壬九廿七左少将。同二正六従四下(従一位藤原朝臣給。少将如元)。同廿三長門介。嘉禎元十一十九従四上。同二四十四左中将。十二月十八日禁色。同三正廿四美作介。同四月廿四正四下。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a27c37575ac6bade5d3b3ac024ed899f

という具合いに相当詳細であり、記録に連続性があります。
『公卿補任』の年齢の誤記は、貴兄が十二世紀から十六世期まで調べても僅か四例しか見つけることのできないとのことなので、もともと顕親の生年に特に関心のない葉室定嗣の単発の記録より『公卿補任』の方が信頼性が高い、と考えるのが常識的ではないかと思います。
コメント (11)
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