学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

山本みなみ氏「北条時政とその娘たち─牧の方の再評価」(その3)

2022-01-20 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 1月20日(木)11時35分21秒

山本氏は「牧の方腹では唯一生年の判明する八女(頼綱室)と政範が二歳差であることから、他の子女も機械的に二年ごとの出産と仮定した結果、婚姻時期は治承四年となった」とされます。
この「仮定」は何とも強引なものですが、この強引な「仮定」に基づいて遡っても、北条時政と牧の方の婚姻時期は治承四年(1180)止まりですね。
しかし、山本氏は更に「治承四年以後よりはそれ以前の可能性が高いだろう。野口氏の指摘されるように、婚姻時期が頼朝の挙兵以前であることは間違いないと思われる。おそらく時政と牧の方は、頼朝と政子の婚姻直後の治承年間に結ばれたのではないだろうか」とされています。
そこで、その理由を知ろうと思って、「婚姻時期が頼朝の挙兵以前であることは間違いないと思われる」に付された注53に従って野口実氏の「伊豆北条氏の周辺─時政を評価するための覚書」(『京都女子大学宗教・文化研究所研究紀要』20号、2007)を読んでみたところ、不思議なことに野口氏はそのようなことを書かれていません。
この野口論文は京都女子大学サイトで読めるので、私は昨日二回、今朝も一回読んでみましたが、やっぱりありません。

「伊豆北条氏の周辺 : 時政を評価するための覚書」

そもそも山本氏の注記には些か不審なところがあって、

(53)野口B前掲注(4)論文。

に従って、注(4)を見ると、

(4)野口実A「「京武者」の東国進出とその本拠地について─大井・品川氏と北条氏を中心に─」(『研究紀要』一九号、京都女子大学宗教・文化研究所、一九九九年)、同B「伊豆北条氏の周辺─時政を評価するための覚書─」(『研究紀要』二〇号、京都女子大学宗教・文化研究所、二〇〇〇年)【後略】

となっているのですが、A論文が発表されたのは2006年、B論文は2007年ですね。
そこで私は、もしかしたら山本氏はA論文とB論文を取り違えているのではなかろうかと思ってA論文も読んでみました。

「「京武者」の東国進出とその本拠地について : 大井・品川氏と北条氏を中心に」

この論文は、

-------
はじめに
一  大井・ 品川氏と品川湊
二  伊豆北条氏の系譜とその本拠
 1 北条氏の出自
 2 伊豆国衙周辺の人的環境
 3 円成寺遺跡の語るもの
むすびに
-------

と構成されていますが、「1 北条氏の出自」の「時政が池禅尼の姪にあたる中流貴族出身の女性( 牧の方)を妻に迎え」(p57)に付された注(10)(p66)に、

(10)杉橋隆夫「牧の方の出身と政治的位置─池禅尼と頼朝と─」(上横手雅敬監修『古代・中世の政治と文化』思文閣出版、一九九四年) 。この論文における牧の方の年譜のシュミレーションには、政範の出産を四十六歳の時とすることなどに無理を感じざるを得ないが、時政と牧の方との婚姻の時期が頼朝挙兵以前であることについては間違いないと思う。

とあって、私が探し求めていたのはどうやらこの記述のようですね。
ただ、ここには別に野口実氏の独自の見識は披露されておらず、杉橋論文に対する単なる感想ですね。
うーむ。
私の努力はいったい何だったのでしょうか。

>筆綾丸さん
>①五女(朝雅の正室、のち、国通の側室)

当時、貴族社会では鎌倉の有力者の娘を妻に迎えることが出世と財産獲得の極めて有力な手段になっていたので、正妻と離縁して武家の娘を妻に迎えるような例もありました。
従って、時政娘の場合、「側室」ではなく「正室」と考えるべきだと思います。
ただ、系図類の作者は、ここは身分違いだから「妾」だろう、みたいな解釈を加えていることがありそうです。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

婚姻のかたち 2022/01/19(水) 12:46:02
小太郎さん
牧の方の娘のうち、貴族に嫁した者は、
①五女(朝雅の正室、のち、国通の側室)
②七女(実宣の側室)
③八女(頼綱の正室、のち、師家の側室)
④九女(忠清の側室)
というような理解でいいのでしょうね。
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