学問空間

【お知らせ】teacup掲示板の閉鎖に伴い、リンク切れが大量に生じていますが、順次修正中です。

「何しろ当時の朝廷はデカダンな雰囲気にあふれ……」(by 榎村寛之氏)

2018-04-02 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 4月 2日(月)21時55分41秒

前投稿で唐突に『我が身にたどる姫君』に言及してしまいましたが、この小説と前斎宮との関係については、例えば榎村寛之氏の『伊勢斎宮と斎王』(塙書房、2004)などが参考になります。
少し引用すると(p159)、

-------
 文永九年(一二七二)、元が北九州に侵攻してくる二年前、時の斎王、愷子内親王が、父、後嵯峨上皇が亡くなったため帰京した。平安時代ならすぐに次の斎王が選ばれる段取りになる。しかし、現実には次の斎王が選ばれたのは三十四年の後、徳治元年(一三〇六)のことだった。
 何しろ十三世紀の後半ともなると、斎王制度の形骸化は著しくなっていた。一二二一年の承久の乱以後、一三〇〇年までの七十九年間で選ばれた斎王は四人、そのうち伊勢に群行したのは三人で、伊勢滞在期間となると、合計たったの十五年に過ぎなかったのだ。そして愷子内親王は、結果的に最後に伊勢に赴いた斎王となった。
 さて、鎌倉時代に入ると、朝廷の側も斎宮についての認識が次第に変わってきた。端的に言ってしまうと、「ありがたみが薄れてきた」ように思えるのである。
 『とはずがたり』という自伝小説がある。作者は二条と通称される、後深草上皇に仕えていた女房である。作者は少女の頃から上皇の愛人だった人で、後年出家し、西行法師にならって放浪の歌人となり、恋多き半生と求道の生活を振り返ったこの自省録を著した。この中で彼女は、愛人である後深草上皇を、元斎王の愷子内親王の元に手引きしたが、二人の関係は長く続かなかったことを記しているのである。
 何しろ当時の朝廷はデカダンな雰囲気にあふれ、謹厳実直な方が見れば、何たる退廃ぶりかと目を覆わんばかり。創作の世界ともなれば更に不思議な作品が見られ、たとえば『わが身をたどる姫君』という小説には、同性愛者の斎王が出てくる。また、先述した済子女王の密通の噂をもとに『小柴垣草紙』という秘画絵巻が作られたのも鎌倉時代前期のことである。
-------

ということで、『わが身をたどる姫君』は『とはずがたり』以上にアブナイ世界を描いた小説であり、『小柴垣草紙』は鎌倉時代のポルノグラフィーですね。
ま、このあたりに深入りすると、なかなか戻ってくるのに時間がかかりそうです。
それと、『とはずがたり』と『増鏡』の前斎宮の場面を検討する際に書き忘れてしまったのですが、上記引用の冒頭に書かれているように、愷子内親王は史実では後嵯峨院崩御のその年の内に帰京しているにも拘らず、『とはずがたり』と『増鏡』ではすぐには帰らなかったと記されています。
まず、『とはずがたり』では、

-------
まことや、齋宮は後嵯峨院の姫宮にてものし給ひしが、御服にており給ひながら、なほ御いとまを許され奉り給はで、伊勢に三年まで御わたりありしが、この秋のころにや、御上りありしのちは、仁和寺に衣笠といふわたりに住み給ひしかば、


となっており、『増鏡』でも、

-------
まことや、文永のはじめつ方、下り給ひし斎宮は後嵯峨の院の更衣腹の宮ぞかし。院隠れさせ給ひて後、御服にており給へれど、なほ御いとまゆりざりければ、三年まで伊勢におはしまししが、この秋の末つ方、御上りにて、仁和寺に衣笠といふ所に住み給ふ。


ということで、『とはずがたり』『増鏡』いずれも前斎宮は後嵯峨院崩御後も三年間伊勢に留まったことになっています。
小さなことではありますが、一応メモしておきます。

愷子内親王(1249-84)
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 前斎宮と『我が身にたどる姫君』 | トップ | 第三回中間整理(その1) »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

『増鏡』を読み直す。(2018)」カテゴリの最新記事