学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

山本みなみ氏「北条時政とその娘たち─牧の方の再評価」(その1)

2022-01-18 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 1月18日(火)22時30分17秒

ツイッターで野口実氏が紹介されていた山本みなみ氏の「北条時政とその娘たち─牧の方の再評価─」(『鎌倉』115号、鎌倉文化研究会、2014)という論文を入手したので、その感想を少し書きます。
野口氏らが提起された「北条氏は都市的な武士か」という問題に関連して、「北条時政とその後妻・牧の方の結婚時期はいつか」という問題が近時議論されています。
論点を明確にするため、呉座勇一氏の『頼朝と義時』(講談社現代新書、2021)から少し引用させてもらうと、

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 北条時政が都市的な武士であるという新説は、時政の結婚をも根拠にしている。時政の後妻は牧の方だが、その出自は長らく不明だった。ところが杉橋隆夫氏が、牧の方は平忠盛(清盛の父)の正室である宗子(池禅尼)の姪であることを明らかにした。牧の方の父である牧宗親は、池禅尼の息子である平頼盛(清盛の異母弟)の所領である駿河国大岡牧(静岡県沼津市・裾野市)の代官を務めていた。
 杉橋氏は、保元三年(一一五八)に時政二十一歳、牧の方十五歳の時に結婚したと推定した。五位の位階を持つ貴族の家である牧氏出身の牧の方と結婚できたとすると、時政も相応の身分の武士ということになる。
 しかし杉橋氏のシミュレーションに従うと、牧の方は四十六歳の時に政範(義時の異母弟)を出産したことになり、非現実的であるとの批判を受けた。本郷和人氏は、二人の結婚は、治承四年(一一八〇)以降、すなわち頼朝挙兵後と想定した。
 最近、山本みなみ氏は、二人の結婚時期を引き上げ、頼朝挙兵以前とした。けれども、山本氏の場合も、頼朝と政子が結婚した治承元年以後を想定している。だとすると、時政が牧の方と結婚できたのは、もともとの身分が高かったからとは必ずしも言えない。むしろ、時政が頼朝の舅になったことが大きく作用したのではないだろうか。
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といった具合です。(p35)
まあ、杉橋説はいくら何でも無理だろうと思いますが、山本氏が「二人の結婚時期を引き上げ、頼朝挙兵以前」、「頼朝と政子が結婚した治承元年以後を想定」した理由が気になります。
そこで山本論文を見ると、まずその構成は、

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 はじめに
一、牧の方腹の娘たち
(一)婚姻関係の検討
   ①五女(平賀朝雅に嫁したのち、藤原国通に再嫁)
   ②七女(三条実宣と婚姻)
   ③八女(宇都宮頼綱に嫁したのち離縁し、松殿師家に再嫁)
   ④九女(坊門忠清に嫁す)
二、牧の方の評価
(一)時政・牧の方年譜の再検討
(2)晩年の牧の方
 おわりに
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となっています。
「はじめに」では、杉橋隆夫・野口実氏の業績に触れた後、

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興味深いことに、牧の方腹の娘は鎌倉幕府に仕える有力御家人だけでなく、京都の貴族にも嫁いでおり、私見では北条氏の政治的地位や姻戚関係を考察する上でも貴重な手がかりになると考える。そこで、本稿では北条氏を評価するための基礎的研究として時政の子女、殊に牧の方が産んだ娘たちに注目し、その生年や婚姻関係を論じたい。さらに、娘たちの検討を踏まえて、牧の方と時政との婚姻時期や、晩年の牧の方と幕府の関係についても考察したい。
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とされています。(p1)
そして「一、牧の方腹の娘たち」に入ると、

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 本章では、時政と牧の方との間に生まれた娘について検討する。系図や記録から時政の子女と見なされる者は十五名にのぼり、うち男子は宗時・義時・時房(以上先妻腹)・政範(牧の方腹)の四名、女子は十一名である〔表Ⅰ参照〕。
 女子十一名のうち、牧の方腹で貴族に嫁したのは以下の四名である(再嫁も含む)。
 ①平賀朝雅に嫁したのち、藤原国通に再嫁した五女
 ②三条実宣に嫁した七女
 ③宇都宮頼綱に嫁したのち離縁して、松殿師家に再嫁した八女
 ④坊門忠清に嫁した九女
 以下、それぞれの娘を検討したい。なお、娘の生年順は、野津本「北条系図・大友系図」(田中稔「史料紹介野津本『北条系図、大友系図』」『国立歴史民俗博物館研究報告』第五集、一九八五年。『福富家文書─野津本「北条系図・大友系図」ほか皇学館大学史料編纂』皇学館大学出版部、二〇〇七年)に拠るものである。
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とあります。(p2)

>筆綾丸さん
>昨日の『鎌倉殿の13人』

時政・牧の方の描かれ方は「北条時政が都市的な武士であるという新説」にずいぶん寄っている感じでしたね。
まあ、野口実氏はおそらく満足されていないでしょうが。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

かに くり あをな うり かうし 2022/01/17(月) 13:30:19
小太郎さん
http://www.transview.co.jp/smp/book/b442696.html
まだ読んでませんが、西村玲氏が存命なら、宗教的空白あるいはゾンビ・ブディズムに関して、どんな見解を有したか、訊いてみたいところですね。

昨日の『鎌倉殿の13人』で、頼朝の好物として、かに、くり、あをな、うり、かうし、と和紙に達筆で記してあるシーンを見て吹き出してしまいました。
かには平家蟹、くりは勝栗、うり(瓜)は挙兵間近で今が売り、というパロディーだと思いますが、あをなはわかりません。かうし(柑子)は、現在の伊豆に多い蜜柑畑を踏まえ、都育ちの頼朝が伊豆に流されて蜜柑好きになった、ということなんでしょうね。歴史に残る名場面だと思いました。話の展開は、まあ、どうでもいいようなことです。
付記
頼朝は政子が出したアジを食べてましたが、東伊豆の湯河原、熱海、伊東と言えば、蜜柑の他ではアジの干物が有名ですね(小田原は蒲鉾と塩辛です)。ただ、伊豆の北条という地からすると、海の幸よりも、狩野川のアユ(塩焼き)のほうが相応しかったのではないか、という気がしました。
徒然草第40段に、栗をのみ食らう異様な女の話がありますが、佐殿は好き嫌いがあるとはいえ、バランスよく食べていたようです。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E8%8F%9C_(%E8%90%BD%E8%AA%9E)
あをなは、落語の「青菜」を踏まえ義経を暗示しているのだ、ということかな。
コメント (2)
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