風薫る道

Who never feels lonely at all under this endless sky...?

河合隼雄 『未来への記憶 ―自伝への試み―』(2001年)

2020-09-11 17:12:34 | 




先日図書館で木村久夫氏の本を借りた際に同じ棚でたまたま見つけ、借りてみました。
河合さんといえば、谷川俊太郎さんから「みみをすます」の朗読者第一号の認定証を発行された方
谷川さんの話に出てくる河合さんの飄々としたキャラクターに好感を持っていたことと、先日ある本で読んだ河合さんの「日本の中空構造」についての話が面白かったため、この自伝も読んでみようと思ったのでした。

★「日本の中空構造」とは何かというと、河合さんは日本の神話から「日本は真ん中が空っぽなのではないか」という推論をたてました。例えばイザナギとイザナミはアマテラス・ツクヨミ・スサノオを生みますが、アマテラスとスサノオが神話の中で大きな役割を与えられているのに対し、その間のツクヨミは殆ど無為の存在であること。同じような中空構造が日本ではあちこちに認められ、それは決して悪い面ばかりではないが、何か問題が起きたときに責任の所在が曖昧になり社会システムとしては非常に脆弱であるという問題をはらんでいる、と。この国が抱える様々な問題を考える上で、日本がそういう構造をもった国であるということを意識しておくことは有用なのではないか、と仰っていて、面白い視点だなと思ったのでした。以上、余談。

この『未来への記憶』は河合さんが2001年に72歳のときに出版した自伝で、兵庫の篠山で生まれたときからスイスのユング研究所で資格を取得するまでの半生が綴られています。
私は心理学というものを信頼しきれていない部分があって、これまであまり興味を持ててこなかった分野なのだけれど、河合さんの本に触れて、心理学というのは正しい正しくないというよりも一つの手段として捉えるべきものなのかもしれないな、と思うようになったのでした。宗教と同じで、私達がより幸福に生きるための手段であると。なので、それが悪い方向に利用されるのなら問題だけれど、それが私達が良い方向に向かうきっかけとなるのなら、正しいかどうかは大した問題ではないのかもしれない、と。
以下、心理学の知識皆無な私の感想なので的外れなことを書いているかもしれませんが、ご容赦くださいませ。自分用の覚書です。

河合さんがロールシャッハテスト(インクのシミが「何に見えるか」という心理テスト)について師のクロッパーから学んだことの一つに、「これは自然科学ではない」というものがあります。
テストする人とされる人の関係がそこに入ってくるし、個々の人間の個性などということを考え始めると、簡単に概念化したり一般化したりすることはできない。とすると、ひとつひとつの現象をそのまま見て記述することが大切であり、法則があるとかないとかの前提をもたないようにするべきであると考えるのです。ともすれば何かを切り棄てることによって一般化したくなるとき、もっと根本的に個々の現象を詳細に見直してゆこうとするのです。」と。
私は心理学を自然科学的なものと捉えて違和感を覚えていたので、これは新鮮でした。この考え方は、以前ご紹介したフィッツジェラルドの『リッチ・ボーイ』の文章に通じるものがあるように思う。
また西洋では心理分析の学者の理論に机上の研究はあり得ず必ず臨床ありきなのだという点も、へえ、と。

そして面白かったのが、「シャドー(影)」の話。
シャドー(影)とはユングが提唱したアーキタイプ(元型)というもののうちの一つで、「自分の生きて来なかった半面」のこと。無意識の世界にいるもう一人の自分。
これは後に読んだ『魂にメスはいらない』の方により詳しく書かれてありましたが、人が人生である面を生きていくということは誰でも別のある面は生きていないということになる。その生きていない半面(シャドー)は「自分の苦手なタイプの同性」という形で夢に出てくることが多いそうで、それを苦手だからと拒否するのではなく、きちんと向き合い、そこからのメッセージを受け入れてみることが大切なのだと。そうして「今の私」に「もう一人の私」をうまく統合させることができたら、影は光に変わり、人は人間的により成長することができるとユングは考えたそうです。つまりこの統合がなされると、これまで苦手だったタイプのものも受け入れられるようになり、より広い心で前向きに生きられるようになる、ということだと思います。
この無意識の自分との対話を催眠術でもできないかというと、催眠術の被験者は目覚めたときに自分の言ったことを忘れてしまっているため、統合ができないそうです(統合がなされるためには、まず本人がシャドーを意識できていなければならない)。だから夢を記録する方法がいいのだと。
この辺りで私は「夢・・・夢ねえ・・・」と胡散臭い気持ちになってしまったのですが、これ、騙されたと思ってやってみるとなかなか面白いです。私は夢を滅多に見ないのですが、河合さんの本を読んでから何故かほぼ毎晩見るようになり、そこに出てくる人物がシャドーかどうかはわからないのだけど、自分の無意識の片割れかもしれないと思ってじっくり向き合ってみる、その意味を考えてみる、という作業自体は自分にとって有意義なことのように思う。
でもこの「苦手な人物を自分の片割れかもしれないと考えて避けずに向き合ってみる」というのは夢の中じゃなくても現実世界でもできる作業のように思うのだけど、どうなんだろう。まあ本当の意味での無意識の自分となると、やっぱり夢の中にしか出てこないのかもしれませんが。
シャドーに関しては、河合さんの師マイヤーやユングの友人だったロレンス・ヴァン・デル・ポストの書いた『ア・バー・オブ・シャドー(A Bar of Shadow)』(『影の獄にて』という題で思索社から翻訳版が出ています)という本があり、それが映画『戦場のメリークリスマス』の原作なのだそうです。坂本龍一の音楽とデヴィッド・ボウイとのキスシーンばかりが印象に残っていたあの映画にまさかユングの思想が散りばめられていたとは!浅薄で邪道な見方をしていた10代の自分を反省し、観直してみたいと思いますm(__)m。
シャドーについては、ノイマイヤーの『真夏の夜の夢』の王と女王が夢の中では妖精界の王と女王になるという設定に通じるものがあるように思いました。あとグリゴローヴィチ版の『白鳥の湖』の王子とロットバルトの関係もそういう風に読める気がする。意外と面白いな、心理学。

そしてとても驚いたのが、河合さんがユング研究所時代にニジンスキーの奥さんのロモーラの日本語教師をされていたということ
ニジンスキーが入院していた精神病院はスイスのクロイツリンゲンにあり、河合さんは実習のためにその病院をよく訪れていたとのことなので(ニジンスキー自身は河合さんがスイスに行く10年以上前に亡くなっています)、そこに繋がりがあっても不思議はないのですが。
ロモーラさんは七ヶ国語を話せたそうで、更に日本語も勉強したいと。なんかイメージしていた人と違う。意外だ。
彼女は河合さんに、ニジンスキーの話も色々していたそうです。そして、こんなことも。

ぼくがスイスから帰る直前の頃のことですが、いつものようにしゃべっているうちに、ふだんのパーッと華やかな雰囲気がすっかり変わって深刻な顔をして、「これはだれにも言っていないけど、あなただけに聞きたいことがある」と。どういうことかというと、ディアギレフと同性愛関係を保つことによってニジンスキーは踊り続けることができたんじゃないか。そこに自分が入り込んで結婚したために、ニジンスキーは分裂病になったんじゃないか、それをおまえはどう思うかと言うのです。それに対してぼくは、「人生のそういうことは、なになにしたのでどうなるというふうに原因とか結果で見るのはまちがっているのではないか。ニジンスキーという人の人生は同性愛を体験し、異性愛を体験し、ほんとに短い時間だけ世界の檜舞台にあらわれて、天才として一世を風靡した。しかしその後一般の人からいえば分裂病になってしまった。しかし、ニジンスキーにとっては非常に深い宗教の世界に入っていったということもできる。そういう軌跡全体がニジンスキーの人生というものであって、その何が原因だとか結果だとかいう考え方をしないほうがはるかによくわかるのではないか」と言ったのです。そうしたら夫人はものすごく喜んだ。「それを聞いて自分はほんとにホッとする。このことはずっと心のなかにあったことだ」と言っていましたね。ぼくはそういう話ができてほんとによかったと思います。(中略)実在の人物のことだから今まで黙っていたのですが、もう話をしてもいいんじゃないでしょうか。ぼくにとってもすごく大事な体験でした。

ロモーラさん、そうだったのか…。
河合さんは人の自殺についても原因と結果で捉えることがお好きではないそうで、私も似た考えです。

この本についての感想は以上ですが、この後に河合さんと谷川俊太郎さんの対談集『魂にメスはいらない』を読んだので、それについても後日ご紹介したいと思います。
冒頭に載せた写真は、京都の貴船神社。京大出身の河合さんつながりで。

で、心理学には興味がないとか言っているくせに、私はロンドン市内のフロイトが晩年を過ごした家を訪れているのである。古い家を見るのが好きなのです。
駅からも近く、素敵なお宅でした。以下、私が訪れたときの写真です。
フロイトはユングの師でしたが、けんか別れしました。

ロンドンのフロイト博物館 (Freud Museum) は、ロンドンの北部ハムステッドのマレスフィールド・ガーデン20番地にある。1938年、精神分析の創始者フロイトは、マリー・ボナパルトの支援により、故郷の町ウィーンからここに逃避してきた。ジークムント・フロイトは、ユダヤ系の出自のためナチスドイツによりオーストリアがドイツに併合されたためウィーンを捨てて、ロンドンに移り住むことを余儀なくされた。彼はロンドンでも最も知的な印象の強い地域であるハムステッドのマレスフィールド・ガーデン20番地の家に、翌年死去するまで居住した。フロイトは、この地に来てからも彼の研究を継続し、『モーゼと一神教』はここで完成したものである。女性の精神分析家の先駆けでもあったフロイトの娘アンナ・フロイトは、1982年亡くなるまでこの家に住んだ。彼女が亡くなって4年後、彼女の遺志によりこの家は、博物館として一般に公開されることになった。開館したのは、1986年である。
(wikipediaより)




右手のブループラークのついた建物が、マレスフィールド・ガーデン20番地のフロイトの家。


カーライル博物館や漱石博物館と同じく、ドアの前で勇気を要するタイプの博物館


内部は撮影不可だったので、博物館のホームページより。
この階段の踊り場が好きだった。こんなところでゆっくり本を読みたいなあ。


庭に面した1階のサンルームは、フロイトグッズのショップになっています。
私はフロイトの小さなフィギュアを買いました


それなりに説明書きも読んだりしていたので、博物館を出る頃はすっかり夜に。
空いていて、ゆっくり見学することができました。

Freud Museum London
博物館の公式ページ。オンラインショップまであるのだ。

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする