2006年にこのブログでご紹介した学徒兵木村久夫氏の遺書は、『きけ わだつみのこえ』(岩波書店)からの引用でした。
ですがそれは実際に書かれたままの内容ではなく、2つの遺書を合わせ、内容も編集されたものであったことがその後の調査で判明。
2014年、その経緯及び遺書の完全版が掲載された『真実の「わだつみ」』という本が、東京新聞から出版されました。
そちらを先日読んだため、以前の記事を削除し、改めて今回ご紹介したいと思います。
木村久夫 終戦後の1946年5月23日シンガポールにて処刑 28歳。
私も訪れたことのあるシンガポールのチャンギ国際空港は戦中に日本軍の飛行場として連合国側の捕虜たちにより建設されたものであったこと、彼らが収容されていたチャンギ刑務所に戦後木村氏が収容されていたこと、本書を読んで知りました。
戦中、そして戦後に彼の身に起きたこと。それは決して簡単にここに書けるような内容ではないので、遺書全文と合わせ、ぜひ本書をお読みください。
75年前の悲劇を二度と繰り返さないために最も重要なもの。
それはまぎれもなく私達日本国民一人一人の意識の中にこそあるのだと、この手記を読んで改めて強くそう感じました。
以下、本書より一部の抜粋を載せます(「……」は中略部分です)。
……私は死刑を宣告された。誰がこれを予測したであろう。年齢三十に至らず、かつ学半ばにして既にこの世を去る運命、誰が予知し得たであろう。波瀾極めて多かりし私の一生もまた波瀾の中に沈み消えていく。何かしら一つの大きな小説のようだ。しかし、すべて大きな運命の命ずるところと知った時、最後の諦観が湧いてきた。……
日本は負けたのである。全世界の憤怒と非難との真っただ中に負けたのである。日本は無理をした。非難さるべきことも随分としてきた。全世界の怒るのも無理はない。
世界全人の気晴しの一つとして、今私は死していくのである。否、殺されていくのである。これで世界の人の気持ちが少しでも静まればよいのである。それは将来の日本の幸福の種を残すことだ。……
私は何ら死に値する悪はしたことはない。悪を為したのは他の人である。しかし今の場合、弁解は成立しない。江戸の仇を長崎で討たれたのであるが、全世界からしてみれば、彼らも私も同じく日本人である。すなわち同じなのである。彼の責任を私がとって死ぬ。一見大きな不合理ではあるが、これの不合理は、過去やはり我々日本人が同じくやってきたのであることを思えば、やたら非難は出来ないのである。彼らの目に留った私が不運なりとしか、これ以上理由の持って行きどころはないのである。日本の軍隊のために犠牲になったと思えば死に切れないが、日本国民全体(へ)の罪と非難を一身に浴びて死ぬのだと思えば腹も立たない。笑って死んでいける。……
わが国民は今や大きな反省をなしつつあるだろうと思う。その反省が、今の逆境が、明るい将来の日本に大きな役割を与えるであろう。これを見得ずして死するは残念であるが、世界歴史の命ずるところ、しょせん致し方ない。……
すべての原因は、日本降伏にある。しかし、この日本降伏が全日本国民のために必須なる以上、私一個の犠牲のごときは涙を飲んで忍ばねばならない。苦情を言うなら、敗戦を判っていながら、この戦を起こした軍部に持っていくより仕方はない。しかし、またさらに考えを致せば、満州事変以後の軍部の行動を許してきた、全日本国民にその遠い責任があることを知らなければならない。
日本はすべての面において、社会的、歴史的、政治的、思想的、人道的、試練と発達が足らなかったのである。すべてわれが他より勝れりと考え、また考えせしめたわれわれの指導者及びそれらの指導者の存在を許してきた日木国民の頭脳にすべての責任がある。
日本はすべての面において混乱に陥るであろう。しかしそれで良いのだ。かつてのごとき今のわれに都合の悪きもの、意に添わぬものはすべて悪なりとして、腕力をもって、武力をもって排斥してきたわれわれの態度の行くべき結果は明白であった。
今やすべて武力、腕力を捨てて、すべての物を公平に認識、吟味、価値判断することが必要なのである。そして、これが真の発展をわれわれに与えてくれるものなのである。すべてのものをその根底より再吟味するところに、われわれの再発展がある。……
吸う一息の息、吐く一息の息、食う一匙の飯、これらの一つ一つのすべてが、今の私に取っては現世への触感である。昨日は一人、今日は二人と絞首台の露と消えて行く、やがて数日のうちには、私へのお呼びもかかって来るであろう。それまでに味わう最後の現世への触感である。今までは何の自覚なくして行ってきたこれらのことが、味わえばこれほど切なる味を持ったものなることを痛感する次第である。
口に含んだ一匙の飯が何とも言い得ない刺激を舌に与え、かつ溶けるがごとく、喉から胃へと降りていく触感に目を閉じてじっと味わう時、この現世のすべてのものを、ただ一つとなって私に与えてくれるのである。泣きたくなることがある。しかし涙さえもう今の私には出る余裕はない。極限まで押し詰められた人間には何の立腹も、悲観も涙もない。ただ与えられた瞬間瞬間をただありがたく、それあるがままに、享受していくのである。死の瞬間を考える時にはやはり恐ろしい、不快な気分に押し包まれるが、そのことはその瞬間が来るまで考えないことにする。そしてその瞬間が来た時は、すなわち死んでいる時だと考えれば、死などは案外易しいものなのではないかと自ら慰めるのである。……
精神的であり、また、たるべきと高唱してきた人々のいかにその人格の賤しきことを、われ、日本のために暗涙禁ず能わず。……
私の仏前、及び墓前には従来の仏花よりも、ダリヤやチューリップなどの華やかな洋花も供えてくれ。これは私の心を象徴するものであり、死後はことに華やかに明るくやっていきたい。うまい洋菓子もどっさり供えてくれ、私の頭脳にある仏壇はあまりに静かすぎた。私の仏前はもっと明るい華やかなものでありたい。仏道に反するかもしれないが、仏たる私の願うことだ。
そして私の個人の希望としては、私の死んだ日よりはむしろ、私の誕生日である四月九日を仏前で祝ってくれ。私はあくまで死んだ日を忘れていたい。われわれの記憶に残るものはただ私の生まれた日だけであってほしい。私の一生において記念されうべき日は、入営以降は一日も無いはずだ。……
昭和二十一年四月十三日、シンガポール チャンギ―監獄において読了。死刑執行の日を間近に控えながら、これがおそらくこの世における最後の本であろう。最後に再び田辺氏の名著に接し得たということは、無味乾燥たりし私の一生に最後、一抹の憩いと意義とを添えてくれるものであった。母よ、泣くなかれ、私も泣かぬ。……
(刑務所内にて偶然入手した『哲学通論』の余白に書かれていた遺書より。『哲学通論』は出征前の学生時代に木村氏が読んでいた本)
いまだ三十歳に満たざる若き生命を持って老いたる父母に遺書を捧げるの不幸をお詫びする。いよいよ私の刑が施行されることになった。絞首による死刑である。戦争が終了し戦火に死ななかった生命を今ここにおいて失っていくことは惜しみても余りあることであるが、これも大きな世界歴史の転換のもと国家のために死んでいくのである。……
すべての望みが消え去った時の人間の気持ちは、実に不可思議なものである。いかなる現世の言葉をもってしても表し得ない、すでに現世より一歩超越したものである。なぜか死の恐ろしさも解らなくなった。すべてが解らない、夢でよく底の知れない深みへ落ちていくことがあるが、ちょうどあの時のような気持ちである。……
私は戦終わり、再び書斎に帰り、学の精進に没頭し得る日を幾年待っていたことであろうか。
しかしすべてが失われた。私はただ新しい青年が、私たちに代わって、自由な社会において、自由な進歩を遂げられんことを地下より祈るを楽しみとしよう。マルキシズムも良し、自由主義もよし、いかなるものも良し、すべてがその根本理論において究明され解決される日が来るであろう。真の日本の発展はそこから始まる。すべての物語が私の死後より始まるのは、誠に悲しい。
降伏後の日本は随分と変わったことだろう。思想的に、政治、経済機構的にも随分の試練と経験と変化とを受けるであろうが、そのいずれもが見応えのある一つ一つであるに相異ない。その中に私の時間と場所との見出されないのは誠に残念の至りである。……
もう書くこととて何もない。しかし何かもっと書き続けていきたい。筆の動くまま何かを書いていこう。……
死ねば、祖父母にもまた、一津屋の祖父にも会えるであろう。また図らずも戦死していた学友にも会えることだろう。あの世で、それらの人々と現世の思い出語りをしよう。今はそれを楽しみの一つとして死んでいくのである。また世人の言うように出来得んものならば、蔭から父母や妹夫婦を見守っていこう。常に悲しい記憶を呼び起こさしめる私であるかもしれないが、私のことも思い出して日々の生活を元気づけていただきたい。
誰か「ドイツ」人の言葉であったか思い出した。
『生まれざらんこそこよなけれ、生まれたらんには生まれし方へ急ぎ帰るこそ願わしけれ』
私の命日は昭和二十一年五月二十三日なり。……
もう書くことはない、いよいよ死に赴く。皆さま、お元気で、さようなら、さようなら。
一、大日本帝国に新しき繁栄あれかし。
一、皆々様お元気で、生前は御厄介になりました。
一、末期の水を上げてくれ。
辞世
・風も凪ぎ雨も止みたり爽やかに 朝日を浴びて明日は出でなむ
・心なき風な吹きこそ沈みたる こゝろの塵の立つぞ悲しき
遺骨は届かない、爪と遺髪とをもってそれに代える。
処刑半時間前擱筆す
(家族へ宛てた遺書より)