友人からチケットをいただいて、中島みゆきさんの『夜会VOL.20 リトル・ト―キョー』劇場版を観に行ってきました
17時からの回で、お客さんは5人くらいでした。
(ちなみにその2日後に『千と千尋の神隠し(再上映)』を観に行きましたが、そちらも客が12人くらいで、映画館つぶれちゃうんじゃないか…と心配になった。)
客席は客が少ないせいかコロナ対策の空調のせいか冷房がガンガンきいていて、上着を持って行ったので問題ありませんでしたが、おかげで自分が作中と同じ真冬の北海道のホテルにいるような感覚になれました(笑)
以下、感想を少しだけ。ネタバレありです。
夜会はいつも歌的にもストーリー的にも後半でぐわぁ~と波が押し寄せる展開が多いけれど、今回も例にたがわず。
第2幕の後半、「月虹」~「二隻の舟」~「放生」~「いつ帰ってくるの」~「放生」の流れが圧巻でした。特に全員で歌われる「二隻の舟」のエネルギーには言葉にならないもので胸がいっぱいになった・・・。ここは上に載せた劇場版の予告編でもメインに使われていますね。ここのみゆきさんと皆さんの歌唱と表情、素晴らしかった。そして改めて「二隻の舟」は名曲だ。
事前にあらすじを予習したときは海外にある日本人街のリトル・トーキョーとは関係のないお話なのかなと思っていたのだけれど、作中で歌われる「リトル・ト―キョー」の歌詞を聴いて、日本人街にも少し意味合いを重ねているのだな、と。
私は10代のときに初めて行った海外旅行先がロサンゼルスで、泊まったホテルのすぐ近くにあったリトル・トーキョーも散策しました。アメリカでの彼らの歴史をより深く知ったのは、その数年後にワシントンD.C.のアメリカ歴史博物館で日系人の歴史に関する展示を見たときでした(そういえば山崎豊子さんの『山河燃ゆ』、まだ読めていないなあ…)。
今回の夜会の「リトル・トーキョー」の歌詞を日本人街に重ねるなら、第一の故郷は日本の東京となる(夜会の中の話ではなく、あくまで日系人の話)。でもそこには帰れないから仮の場所を作る。ホンモノとは似ても似つかないものには違いないけれども、弱い者たちが身を寄せ合い、心を寄せ合い、今いる場所で生きていくために作りだした場所。一見儚いようで、でもたくましく強い、そこに生きる者達にとってはホンモノ以上にホンモノなこの世界での心の故郷。
そういう風に思うと、ホテル&パブ オークマの片隅に杏奴が作ったステージ「リトル・トーキョー」って、『橋の下のアルカディア』の橋の下のおうちのような存在ですね(帰ってくる人をそこで待つ者達の存在や、ささやかで温かな営み、ラストで家が崩壊してそこに住めなくなるのも、まっさらの場所から新たなステージへ再出発する点も同じ)。
先日『24時着00時発』を観返したときに「みゆきさんという人はカンパネルラではなく、なすべきことをなすために銀河鉄道からこの世界に戻るジョバンニなのだなと感じた」と書いたけれど、今回の『リトル・トーキョー』でも、やはりそう感じたのでした。
みゆきさんの使う「命」という言葉。命というのはこの世界に存するものでしょう。この世界に生きるあらゆる生き物にとって、「命」は一つきりであり、一度きり。そして「放生」とは命を死なせずに、閉じ込めずに、生きたままこの世界で解き放つ行為でしょう。彼らが幸せにこの世界で生きてゆけるように。それは幽霊として戻ってきた杏奴が、小雪やふうさんにした行為。また、杏奴との悲しい別れを乗り越て生きていかなければならない李珠やおいちゃん達にも向けられた想い。
でも、私達は当然ながら、いつか必ず死ぬ。命には必ず終わりがある。志半ばで倒れる人は多い。だからみゆきさんはこの「放生」という言葉に、本来にはないもう一つの意味も込めているのではないだろうか。ラストの「放生」のもう一つの意味、つまり「生からの解放」。私達は生まれ変わるために生きているわけではないし、生まれ変わるために死ぬわけでもないけれど、いつか必ず死すべき運命にあることは免れない(英語でいうmortal)。
でも命から解放された全ての魂にはゆくべき場所があるのだと、帰ることのできる故郷があるのだと。だから安心してこの世界で思いきり生きてきなさい、とみゆきさんは私達に歌ってくれているのではないだろうか。
それは「時代」から変わらず、繰り返しみゆきさんが歌ってきたもの。
ところで『リトル・ト―キョー』はネット上のレビューでは「かつてないほど”陽”の夜会」と多くの方が書かれているけれど、私はあまりそういう感じを受けなくて。一回だけしか観ておらず、”みゆき経験”が皆さんに比べて圧倒的に少ない私が感じたことなので全くアテにならない感覚ですが、見終わったとき、私は少しだけ「寂しい」ような感じを受けたのでした。これは、これまでの夜会では一度も感じたことがないものでした。決して暗い内容ではないし、それどころか救いがない中に救いを与えてくれる典型的なみゆきさんらしい作品なのだけれど、事前に想像していたより遥かにみゆきさんという人が「ストレート」に表現されているように感じられて、それは宮崎監督の『風立ちぬ』を観たときの感覚と似ていて。若い頃には作らなかった作品ではないかなと、今だから作った作品ではないかなと、どこか終わりに近い気配を感じさせる、そういう種類の気負わないストレートさ。そんな感覚を私は受けたのでした。だから最後に杏奴がキラキラとした光を残して空間に溶けて消えたときには、みゆきさんがこの世界でのなすべきことを終えて消えてしまったような錯覚を覚えて、泣きそうになってしまった。なのでその後のカーテンコールの元気な素のみゆきさんの姿にとてもほっとしたのでありました。
そうそう。「二隻の舟」の場面だったと思いますが、舞台中央で白いドレスのみゆきさんが座りながら歌う場面、客席側からどのように見えるかが考え尽くされていることがわかる完璧な美しさで、そういう常に客席からの視点を忘れない客観的な舞台作りに玉三郎さんや美輪さんを思い出しました。私はそういう舞台作りをできる人を尊敬してやまないのである。夜会は作品や歌唱に加えて、みゆきさんのそういう舞台に対する姿勢にもいつも感動してしまうのでした。