風薫る道

Who never feels lonely at all under this endless sky...?

内田光子ピアノ・リサイタル @サントリーホール(11月7日)

2018-11-08 23:20:46 | クラシック音楽




シューベルト:ピアノ・ソナタ第4番 イ短調 D. 537

シューベルト:ピアノ・ソナタ第15番 ハ長調 D. 840
シューベルト:ピアノ・ソナタ第21番 変ロ長調 D. 960 
J.S.バッハ:『フランス組曲』第5番 ト長調 BWV816よりサラバンド(アンコール)

光子さんのシューベルト・ソナタ・プログラム@サントリーホールの第二夜に行ってきました(第一夜の感想はこちら)。
今夜も変わらず咳だらけの客席ではあったが、、、こちらも最初からその覚悟で行ったので、あまり気にはなりませんでした。今夜は最初から光子さんの調子もよかったですし。
マナーといえば美智子様(休憩後の後半にいらしていたのです)は、客席がざわつく楽章間も微動だにされず。あのご年齢では大変だろうと思うのに。客の皆が美智子様のようなマナーならどれほど静かな客席になることか、と思ってしまいました。

さて、今夜の光子さんは、最初からメガネ装着でご登場。先日メガネケースに見えた赤い布は、レンズ拭きであった模様。
先ほども書きましたが、今夜は第一夜と異なり、最初から安定した演奏でした。

4番(D.537)。D.959の最終楽章にも使われた第二楽章のメロディは、シューベルトの生涯を旅するような今回のプログラム構成の中で聴くと、沁みますね・・・。先日の光子さんのD.959の音色が耳に残っているから尚更。光子さんは、シューベルトのこういうポロポロした無垢な弱音が本当に素晴らしい・・・

15番(D.840)も、第一楽章の無垢で清らかなメロディ、その合間に見える哀しみ、揺れる心、自らへの励まし、転調を繰り返す旋律の中にシューベルトのそういった感情が光子さんの音から次々と立ち上ってくる。二楽章最後の消え入るような終わり方も、印象的でした。

(休憩20分)

21番(D.960)
素晴らしかった・・・・・・・・・。
より自然な弾き方をしてくれたら更に好みだとか、この曲では多少のミスタッチもあったけれど、そんなの全く無問題。
光子さんとシューベルトが重なって見えて、シューベルトが目の前で弾いているように感じられて。そう錯覚するほど、シューベルト自身の感情がその音から強く立ち上ってきて。
一楽章から泣きそうになってしまった。
聴きながら、シューベルトはなんという曲を作ったんだろう、と思った。今夜のような演奏を聴いていると、もうこのときには体の半分が別の世界に行っていたとしか思えない。
でも同時に、光子さんの演奏からはまだこちら側の世界にいるシューベルトの心も強く感じられて。その2つを同時に感じてしまうものだから、聴いていて心が引き裂かれそうなほど辛い。辛いのに、美しくて。だから一層辛くて。
最終楽章。どれほど望まなかろうと、シューベルトの意思など関係なく、その時はすぐそこまで迫ってきている。最後の音はレオンスカヤと同じく、光子さんもダンッと勢いよく終えるんですよね。私はこの弾き方に強く「シューベルト」を感じて、とても好きなんです。彼は吹っ切れたわけでも投げやりになったわけでも、また冷静だったわけでもなく、こういう形で納得させて最も彼らしい形で自分の音楽人生を終えさせたのではないだろうか。よく言われる話だけれど、シューベルトのピアノソナタってとても私的なんですよね。声高に誰かに聴かせるためではなく、ただ自分が作りたくて作ったという感じがする音楽。だから一層の純粋さと凄みを感じさせる。

この曲の作曲は19番、20番と同時進行で進められたそうだけれど、今日のような演奏を聴くと(ツィメルマンのときもだけど)、やっぱり21番が最後だよな、と感じる。あえて順番をつけるなら。
20番と21番にはどちらにもシューベルトの死に向かっていく心情が感じられるし、シフは「20番の方が偉大であり、輝きに満ちた20番こそが最後のソナタとしてふさわしい」と言っているけれど。曲としては私も20番の方が好きかもだけど。今回の光子さんの演奏では、最晩年のシューベルトの心がこの2曲でコインの表裏のように表われているように私には感じられて。それは通常の演奏とは逆で、20番に陰を、21番に陽を感じて(という言葉で表わすにはあまりに深いのだけれど、一言で表すならば)。この21番も決して達観している終わり方ではないけれど、最後のあの和音の響きに、今回の演奏ならばやはり最後に聴くべきは21番の方であるように感じられたのでした。
演奏家自身は聴いている私達よりずっと現実的に演奏をしていると思うし、そうでなければこんな演奏はできないと思うけれど(それは歌舞伎役者やバレエダンサーも同じだと思う)、そこからこんなものを聴衆に体感させてくれるのだから、凄いよねぇ。。。そういえばペライアのハンマークラヴィーアのときも同じように感じたのだった。その演奏から神と人間の姿が見えて、帰宅してから読んだインタビューで彼が本当にそういうつもりで弾いていたことを知り、ピアニストという人達の表現力の凄さに驚いたものでした。
そして第一夜と同じく、4番→15番→21番という流れで聴くことで、シューベルトの音楽がその短い人生ではっきりと深みを増していることが実感できたのでした。今回の光子さんのシューベルト・ソナタ・プログラム。少し贅沢かなと思ったけれど、第一夜と第二夜の両方に行って本当によかったと思う。これら6曲全てを通して、それを演奏する光子さんを通して、シューベルトの人生の旅を彼と共に辿ることができたような感覚を今、覚えています。

ところでモーツァルトのときにも書きましたが、光子さんの演奏って日本人離れしているように感じる。彼女の音が作り出す音楽に曖昧なところが一切なく、非常に見通しがクリアなところが。小澤さんが村上春樹さんとの対談本で光子さんの演奏について「男性ピアニストが持てない度胸があって、アルゲリッチと似ている」と仰っていた記憶があるけれど、それは私が感じる光子さんの思い切りのよさと同じものなのではないかしら。

アンコールで弾かれたのは、バッハフランス組曲5番よりサラバンド
今夜のアンコールはこの曲を聴けたらいいなと思っていたので、光子さんがこの曲を弾き始めたときは嬉しかったです(彼女の演奏会では高確率で聴ける曲ではありますが)。光子さんが弾くこの曲の演奏が大好きだという理由もありますが、シフの演奏会のときに感じたように、ラストソナタの後にはバッハの音楽がとてもよく似合うから。全ての音楽が最初の場所に還っていくような安心感をもらえる。そういう意味では、バッハは音楽の父と言われているけれど、母でもあるように感じられるのでした。
そして光子さんの温かで慈愛に満ちたバッハの音色を聴きながら、シューベルトだけじゃなく、光子さんも、この会場にいる人たちも、私も、それぞれがそれぞれの形でいつかその人生を終えるのだな、と感じていました。美智子様は、どういうお気持ちでこの曲を聴かれていたのでしょうか。私は「平成最後の」という言葉は商業主義が透けて見えて嫌いなのですが、少し前屈み気味にじっと聴き入っていらした美智子様の姿が視界に入り、平成ももうすぐ終わるなあ、と、ちょっとしんみりしてしまったのでした。

※自分用覚書1
今夜のD960の4楽章冒頭の音は、1997年の録音よりも強音でした(もちろんツィメさんやレオンスカヤほどではない)。私は今回の方が好き。1997年のサントリーホールでのライブの音に近かったように感じました。

※自分用覚書2
twitter情報で知ったのですが、今回の光子さんのピアノは、ロンドンから運んできた自ピアノwithお抱え調律師だったとのこと。今回のピアノ、いつもの光子さんの音よりもマットというか、親密な音だったように聴こえました。ツィメルマンもオールシューベルトのときは室内楽的な響きを実現させるべくピアノ改造にいつも以上のこだわりを見せていたようだったけれど、シューベルトの曲ってピアニストにそういう特別なこだわりを起こさせる何かがあるのでしょうか。

※自分用覚書3。これまでに聴いたシューベルトのピアノソナタ。
2番(レオンスカヤ)、4番(光子さん)、7番(光子さん)、11番(レオンスカヤ)、13番(レオンスカヤ)、14番(光子さん)、15番(光子さん)、16番(レオンスカヤ)、20番(ツィメルマン、シフ、ヴォロドス、光子さん)、21番(ツィメルマン、シフ、レオンスカヤ、ヴォロドス、光子さん)

※2019.8.28追記
The New York Times Style Magazine ピアニスト内田光子の尽きることなきシューベルトへの愛(AUGUST 28, 2019)


©時事通信社
美智子さま。
客席でご一緒になるのは、熊川さんが踊ったKバレエのカルメン以来4年ぶりでしたが、変わらずお美しくエレガントでいらっしゃる。「上品」という言葉はこういう方のためにあるのだなあと感じます。

Mitsuko Uchida - Bach French Suite - Sarabande


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