風薫る道

Who never feels lonely at all under this endless sky...?

エリソ・ヴィルサラーゼ ピアノリサイタル @神奈川県立音楽堂(1/13)、浜離宮朝日ホール(1/17)

2020-01-25 23:54:39 | クラシック音楽



今年最初の演奏会は、エリソ・ヴィルサラーゼのピアノ・リサイタルを聴きに神奈川県立音楽堂へ行ってきました(13日)
それがあまりに素晴らしかったので、チケットを買い足して浜離宮ホールにも行ってしまった(17日)。計画外の出費だったけれど、後悔はなし。
両日を比べると、13日の方が聴衆のマナーがよく(17日は咳が多かった)、また響きが派手やかな浜離宮ホールより素朴な神奈川県立音楽堂の方がより凄みと深みを感じさせ、今回のプログラムには合っていたように感じました。
でもヴィルサラーゼのあの演奏を2回聴くことができて、本当に嬉しい。13日は舞台向かって左側、17日は右側だったので、鍵盤とお顔の表情とそれぞれ堪能できたのもよかったです

【チャイコフスキー:四季 op. 37bis より 1月~8月】
13日は、椅子に座るか座らないかで弾き始めたヴィルサラーゼ(17日は弾く前に呼吸を整えている感じだった)。
彼女の演奏を聴くのは初めてでしたが、今回のプログラムについてはどの曲の演奏も本当に素晴らしくて、良くないと感じたものが一つもありませんでした。
”ロシア・ピアニズム”というものについて私は詳しくないのだけれど、音の歌わせ方やスケールの大きさ、温かみ、そしてダイナミックさがレオンスカヤによく似ているなと感じました。そして地の底から響いてくるようなあの低音。あの音をこれまで聴いたことがあるのは、ポゴレリッチ、レオンスカヤ、そしてヴィルサラーゼが3人目です。それがロシア奏法と関係あるのか否かはわからない。
「1月:炉端にて」からもうヴィルサラーゼが描く世界にうっとりと聴き入ってしまった。あの音の温かみと深み。チャイコフスキーのこういう温かさが大好きです。先月マリインスキーによる交響曲1番でも感じさせてもらった、ロシアの冬の温かさ。
他の月もどれもみんなよかったけど、「5月:白夜」の白々とした透明感(白夜の空がコンサートホールの天井に広がっているようだった・・・)、そして「6月:舟歌」の孤独と悠久を同時に感じさせるような旋律ではロシアの夜に小舟に揺られながら宇宙に心を遊ばせているような、そんな錯覚を覚えました。ヴィルサラーゼの表現力、素晴らしすぎる・・・。

【プロコフィエフ:風刺(サルカズム) op.17】
プロコフィエフの演奏は、17日も決して悪くはなかったですが、13日の方がより凄みを感じました。ステージの上に物凄いものが出現していた。
サルカズムは、この曲のタイトルである「風刺」の意味を強烈に感じさせられた演奏だった。
風刺というのは大声で何かを批判したり自分の思いを叫ぶのとは全く違うものなのだな、と。自嘲と皮肉と知性で包んで表現されるそのコアの部分の重い暗さ・・・・・。日本の文化にあるそれとは違うロシアという国の凄みを見た。
どの曲も素晴らしかったけど、特に第三曲の表現の深み。そして第四曲の最後の音の、静かであるがゆえの凄みと余韻。もっともここは17日は殆ど余韻をもたせずに第五曲へと繋げていました。

【プロコフィエフ:トッカータ ニ短調 op.11】
サルカズムが終わると「拍手はまあお待ちなさい」という風に掌を蓋にかざして客席を制し、そのままトッカータへ。
これが物凄かった。
この曲はユジャ・ワンで聴いたことがあるけれど、全く違う曲に聴こえました。長いスパンでクライマックスを築き上げていく見事さはどちらも同じだけれど、ヴィルサラーゼのそれは完全に「音楽」になっている。
例の地の底から響いてくるような音でじわじわじわじわと始まりから終わりへと向かっていくあの凄み・・・・。
その音が全く機械的じゃなく、音楽そのものが語っている。といって感情的というのとも違って。
その現代性と人間味のバランス。
目の前でプロコフィエフ本人が弾いているように感じられました。
いやあ、凄かった。それしか言えない。

(休憩20分)

【シューマン:ノヴェレッテ op.21 より 第8曲 嬰へ短調】 
【シューマン:幻想曲 ハ長調 op.17】

休憩前には目の前でプロコフィエフが弾いているようにしか見えなかったのに、今度はシューマンが目の前で弾いているようにしか感じられなかったことに吃驚。
ヴィルサラーゼがシューマンに見えるというのもおかしなことなんだけど、彼女から生まれる音楽がシューマンの根っこのところに根差していると感じさせる、その強烈な説得力。これはレオンスカヤのシューベルトの『さすらい人幻想曲』を聴いたときに感じたのと同じ感覚でした。演奏が「この曲そのもの」に聴こえる。全ての音が自然で、どんなに曲調が変わっても全てが「シューマン」に聴こえる。シューマンという人間を感じる。表面的な「シューベルトらしい演奏」「シューマンらしい演奏」というものとは別次元の、彼らの魂から聴こえるような音楽。
そしてとてつもなく美しいんだけど、賑やかなところでさえもどこか透明で寂しい音がする彼女の演奏を聴いて、シューマンの音楽の独特な美しさが少しわかったような気がしました。
シューベルトの親密さとも、ベートーヴェンの大きな人間愛とも、ブラームスの内省的な音楽とも違う。
決して内向的なわけではない、音は内側に向かっていないし積極性も温かみも感じさせるのに、不思議と外の世界とは繋がっている感じがしない、「彼の世界」のスケールの大きさを感じさせるというか。
シューマンの音楽にファンタジーという言葉がよく使われるのはそういう理由もあるのかな、と。
そしてこれは深読みしすぎと言われてしまうかもしれないけれど、こういう音楽を作る人が長生きできるわけがない、とも感じたのでした。
例えばブラームスの音楽には地に足がついた現実的な部分も感じる。それはきっとこの世界を生きていくために必要なもので、それゆえの美しさがあって。でもシューマンにはそれが欠けているような。そしてこちらにも、だからこその美しさがあって。

いずれにしても、ハイティンクが『マーラーを語る』の中でマーラーについて「彼の音楽を聴きましょう、すべてはその中に」と仰っていたように、どんな伝記や研究書よりも今目の前で弾かれている彼の音楽以上にシューマンを語るものはないに違いない、と強く感じた演奏でした。
最後は長い長い静寂。
今回のリサイタルのチケット代は13日が6千円で17日が9千円だったけれど、特に幻想曲はこの曲を2回聴くためだけにこの金額を払っても全く惜しくないと感じた演奏でした。

アンコールは、13日がシューマン1曲、17日がショパン2曲。

【シューマン:『森の情景』op.82 より第7曲「予言の鳥」(1/13 アンコール)】
この演奏がまた、メインプログラムのシューマン2曲に劣らず素晴らしくて・・・・・。深い深い森の中に一人彷徨い歩いているような、そんな感覚にさせられる演奏でした。
なので13日のリサイタルが終わった後は私の心はずっと深い森の奥に取り残されたままで、こちらの世界に戻ってくることができなくて、それもいいかなと思ってしまっている私もいて。

【ショパン:マズルカ 第45番 Op.67-4 イ短調(1/17 アンコール)】
【ショパン:ワルツ 第2番 華麗なる円舞曲 Op.34-1 変イ長調(1/17 アンコール)】
17日のアンコールはショパン。もう一度あの『予言の鳥』を聴きたかった気もしたけれど、最後にこちらの世界に戻してもらえて、やっぱりちょっとほっとしました笑。
このショパンも、2曲とも素晴らしかった。マズルカ、スタインウェイであんな暗く深みのある音色がでるなんて・・・。そしてワルツの温かな華やかさ!

両日ともサイン会あり。CDがなくても無料のパンフにもサインしてくださるという気前のよさだったけれど、私は「捨てられない物」はできるだけ持たないようにしているので(心の財産だけで十分)、並びませんでした。でも握手だけはしてもらいたかったなー。「サインはいらないので、握手だけお願いします」とも言いにくく。

4月のテミルカーノフ&サンクトペテルブルクフィルとのシューマンの協奏曲も聴きたくなってしまったけれど・・・・・お財布が・・・・・。うー・・・・・・。悩ましいです。

でも今回のヴィルサラーゼのリサイタルは本当に一生ものの宝物になりました。
そして演奏だけでなく、ヴィルサラーゼという人の高潔な空気も素晴らしかったな。その演奏を聴いていると、そして舞台の上の彼女を見ていると、この人は私なんかよりずっと精神的な次元の高いところで生きているのだなと感じて、すごく良い「気」をもらうことができました。そんな気高さと、演奏後やサイン会での気さくな笑顔(横から拝見していた)のギャップも素敵だった

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