風薫る道

Who never feels lonely at all under this endless sky...?

高畑勲展 日本のアニメーションに遺したもの @東京国立近代美術館

2019-10-04 14:11:55 | 美術展、文学展etc




子どもの心を解放し、生き生きとさせるような本格的なアニメシリーズを作るためには、どうしなきゃいけないのかということを一生懸命考えた。

・・・

描いていない部分があるとか、ラフのタッチのままだとか。
そしてそれが、とりもなおさず、見る人の心に記憶を探ろう、想像しようという気持ちを呼び覚ますんだと思います。
「かぐや姫の物語」での線の途切れ・肥痩、塗り残しがたつきなどは、そのために役立ったのではないでしょうか。

(高畑 勲)


少し前になりますが、東京国立近代美術館で開催中の高畑勲展に行ってきました。
宮崎さんが監督をし高畑さんがプロデューサーをされた『風の谷のナウシカ』が公開されたのが1984年、私が8歳のとき。スタジオジブリ設立が翌1985年。でも「ジブリのアニメ」と呼ばれるもっと前から、世界名作劇場の『アルプスの少女ハイジ』などの形で、高畑さんや宮崎さんの作品は意識されることなく子供だった私の生活の中に自然に溶け込んでいたのでした。

宮崎さんの作品と比べると現実世界や人生の厳しさをリアルに容赦なく突きつける高畑さんの作品は、私には時に苦しく感じられてしまう(アニメの中でくらいもう少し夢を見させてくれてもいいではないかと思ってしまう)こともあるのだけれど。
今回の展覧会、とてもとてもよかった。
展示が丁寧で誠実で知的で、高畑作品に対するいっぱいの敬愛が伝わってきて、会場をまわりながら高畑さんがその作品を通して描こうとしたもの、日本の未来と子供達に遺したかったもの、遺してくれたものが熱く胸に届いて、最後の『かぐや姫の物語』のコーナーを観終わったときにはなんだか涙が出そうになってしまった。ただでさえ『かぐや姫の物語』は映画館でボロ泣きした作品ですし。

東大仏文科卒(ということも今回知った)の高畑さんがジャック・プレヴェールの熱烈なファンで詩集の翻訳もしていたことを知り、へえ、と思いました。なぜなら『かぐや姫の物語』を観ながら私の頭に浮かんでいたイメージが、まさにジャック・プレヴェールのこの詩だったからです。高畑さんの翻訳ではありませんが。

天にましますわれらの父よ
天にとどまりたまえ
われらは地上にのこります
地上はときどきうつくしい
(抜粋)

アニメーション映画『木を植えた男』のフレデリック・バック氏との交流についての展示も、温かくてよかったな。
妥協が全くない高畑さんの製作方法は、現場の人達にとっては想像を絶するご苦労もあったろうと思うけれど(漏れ聞く話だけでも壮絶ですし…)、それでも、なんだかとても清々しく美しく感じられて。
せっかくこの世界に生まれてきたのだからしっかり生き尽くさなきゃもったいないでしょう、と高畑さんから言われているようで。
この展覧会に来てよかったな、と心から感じたのでした。
アニメーションは一人の力で作るものではなく大勢の力で作り上げられるものなのだということも、今回の展示で改めてわかりました。

『火垂るの墓』のコーナーの壁には、清太と節子が戯れる蛍の光が戦闘機から落とされる焼夷弾の炎と重なっている絵が投影されていて(映画公開時のポスターよりもはっきりとB29の姿が見えました)、それがとても美しく、だから一層恐ろしく、幸せそうな兄妹の姿が悲しかった。
丘の上のベンチで清太が眠る節子を膝に眼下の現代の神戸の街並みを見つめているラストシーン。あれは「私達が平和を享受して生きているこの世界は彼らが生きた時代から繋がっている世界なのだということを忘れてはならない」というような意味なのだろうと今までぼんやりと解釈していたのです。清太の表情がどこか虚ろなことが気にはなりつつ。現代の世界に彼らの霊がいるということは、それまでの長い時間二人の霊はどうしていたのだ?・・・・と思いながらも、なんとなくその辺を曖昧なままにして今までこの映画を見ていたのだけれど。
遅ればせながら、今回真実を知った私でありました・・・。
高畑監督はやはり高畑監督で、宮崎監督ではなかった。どこまでも甘くない。そしてそれが高畑さんという人の、世界や観客に対する誠実さなのだと思う。
そういう意味で、この作品は『かぐや姫の物語』と似ているのですよね。

かぐや姫は最後に良い面も悪い面も含めた地上の美しさに気づくけれど、もうそのときにはこの世界を去らねばならなくて。
「生きるために生まれてきたのに」と泣きながら地球を去るかぐや姫と、それ以上成長せずに閉じられた世界の中で繰り返し同じ時を生きるしかない清太達。死は何かの解決には決してならないし、何ものにも繋がらないという高畑監督の冷徹な視点は、どちらの作品にも共通している。
これは”死”というものについて高畑さんが考えているところのものを、そのままに描いているのだと思う。そして監督が最も描きたかったものはもちろん、そのような”死”に相対するものとしての”生”の素晴らしさでしょう。
高畑監督は彼らのような人生を描きながら逆説的に、汚いものも綺麗なものもあるこの地上を「それでもこの世界は美しく、生きるに値する世界である」と言っているのだと思う。
このメッセージは、宮崎監督の作品にも共通するもの。
でも、宮崎監督は主人公達や観客に対してもう少し甘い笑。そして私は宮崎監督のそういう甘さが好きだ。下記のドキュメンタリーの中で『風立ちぬ』の完成試写を観た高畑監督が「出会いからなにから全部あり得ないというかな、こうあってほしいという風な、パラソルが飛ぶところから始まる…そういうのがいっぱい出てくる。それがものすごくリアルというわけでもなく、本当らしく見せようと思ったらもう一押ししなきゃいけないんじゃないかというところがサラサラといっちゃう。それが悪いと思ってないんです全然。まあ(宮崎監督の)理想なんでしょうね色々と。死ぬことも含めて理想でしょ」(『「かぐや姫の物語」は、こうして生まれた。』)と仰っているけれど、私もそのとおりだと思う。あれは宮崎監督の夢がいっぱいに描かれた作品。そしてそういう作品から元気をもらえることでこの現実世界を生きることができる私のような人間もいるのです。
でもご自身の『かぐや姫の物語』を”優しくない映画”と仰る高畑監督も、この地上を志半ばで去らねばならなかった命への救いをのこしてくださっているではないですか。映画の最後に「いのちの記憶」を流してくださったことで。あれ以上の優しさがあるだろうか。
かつて月から舞い降りた小さな命が、翁と媼に大きな大きな幸せを与え。人と出会い、自然と触れ合い、成長し、愛を感じ、喜びを感じ、怒りを感じ、悔い、涙を流し。たくさんの出来事、たくさんの想い。それらの記憶はこの地上を去るときがきても、決して消えない。必ず憶えてる。そしていつか必ずまた会える、懐かしい場所で――。
ちなみに私がもっている生命や世界のイメージはこのようなものなので、「いのちの記憶」もそのようなイメージで聴いています。

高畑勲監督は追い求めた、アニメの向こうにある「現実」を。82年の生涯を振り返る

「かぐや姫の物語」。高畑勲監督が答えていた「姫の犯した罪と罰」とは

悲惨日誌(スタジオポノック)
『かぐや姫の物語』のプロデューサー西村義明さんによる2013年4月15日~9月1日の製作日誌(全121回)。まあ、、、凄まじいの一言ですよね。「お世話になっております」の社交辞令を許さず「あなたをお世話した記憶がないんですが」と返す高畑さん。こういう人、私は大好き。ではあるが実際に自分が言われたら確実に凹んで萎縮しちゃいますね



宮崎監督と高畑監督のお二人、いい関係だなあ。どちらも70オーバーなのに少年みたい 鈴木プロデューサーが加わった3人の会話は、ずっと聞いていたい。久石さんの謙虚さもとても素敵です。
前編はこちら

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