案の定、緊急事態宣言の最後まで残りそうなわが県。
兵庫の友人は職場から突然「通常出勤」を言い渡されたそうで、「5月いっぱいは休む気満々だったのに」と泣いておりました。アニメや映画を観まくっておうち生活を満喫中だったらしい。
私はまだまだ観るぞよ (仕事はちゃんとしてますよ)
突然ですが、皆さんはもしタイムスリップができたら、いつに行ってみたいですか?過去?未来?
私は絶対江戸時代。町娘の恰好をして芝居小屋で歌舞伎や人形浄瑠璃を観るの。そして茶屋でお団子を食べるの。
そんな私の見逃しドラマ視聴プロジェクト第四弾は、『ちかえもん』(2016年)。曰く、”痛快娯楽時代劇”。
たのしかった~~~~~~~~
脚本は、『漱石悶々』『夫婦善哉』に引き続き藤本有紀さん。
こうして続けて観てくるとドラマの展開が少々ワンパターン気味ではあるものの、今回は文句なしに楽しかったです。『漱石悶々』もそうだったけど、この方はこういうコメディ&フィクション要素の強い作品の方が向いている気がする。
セットも相変わらず素敵で、堂島新地や天満屋のテーマパークのようなワクワク感!蜆川に浮かぶ小舟、水面に映る月影、座敷から漏れる灯り、人々の喧噪・・・。ああ、タイムスリップして覗いてみたい。
街のあちこちにさりげなくいるワンコも楽しい(@綱吉時代)。
今回はキャストもパーフェクト
近松門左衛門役は、松尾スズキさん。
近松って元は武家の出なんですね。そして『曾根崎心中』を書いたのが51歳のときだったとは知りませんでした。『曾根崎~』って彼の初期の作品というイメージがあるので、もう少し若い頃の作かと思っていた。だからこのドラマの「近松のスランプ」という発想が生まれたんですね
フォークソングの替え歌(近松歌上手い笑)、忠臣蔵のパロディ(近松の創作過程の妄想)、楽しすぎる。
「うその何があきまへんのや。うそとほんまの境目が一番おもろいんやおまへんか。それを上手に物語にすんのんがあんたの仕事でっしゃろ?」
ドラマのラストで万吉が近松に言うこの言葉は、近松の虚実皮膜論に繋がりますよね。よくできた脚本だなあ。
万吉役の青木崇高さん。
「にんじょうぎょうるり」笑。
孝行を尊ぶ綱吉の治世に、ふっこうっとお~と歌いながら”不孝糖”を売り歩く万吉はん。
「なんやろなあ。なんで皆あないに息苦しい生き方せにゃならんのやろ。お初の父親も平野屋さんも己の生き方貫いてるようでいて、結局世の仕組みに雁字搦めにされてるだけや。お初に至っては親のために仇討ち考えたり、このまま遊女で生きていくて決めたり、若いおなごが見とって痛々しいわ。なんやお前の方が正しいような気ぃすらしてきた。このご時世に不孝糖不孝糖~言うて親不孝すすめてまわっとるお前の方がな」。第6話で近松が万吉に言う言葉。
最後の万吉の正体?に繋がる絶妙なファンタジー味、青木さんうまいな~。このドラマで優香さん(お袖役。彼女もとてもよかった)と知り合ったんですね。
近松の母親役の富司純子さんも、素晴らしかったです。
余談ですが、歌舞伎座のロビーでお見かけする奥様方の中で私が一番「綺麗だな~」と感じるのが、富司純子さんなのである。細い方で薄化粧なのだけど透明感があって、いつも思わず目で追ってしまいます。
竹本義太夫役の北村有起哉さん。
演技もとってもよかったけど、義太夫節に違和感が殆どなかったのもすごい。キャストのテロップには「義太夫節指導・三味線 - 竹澤團七」と。へえ。三味線弾きさんは義太夫節の指導もできるのか。文楽の世界でよく「三味線弾きが太夫を育てる」という言葉を聞くけれど、改めて、そういうものなのだなあ、と。太夫と三味線の関係って面白いですね。なお、團七さんは三味線弾き役でご本人も出演されています。
お初(早見あかりさん)と徳兵衛(小池徹平さん)。
「徳さま~」「おはちゅ~」笑。
小池さん(あほぼん)は最初こそ「この現代的すぎる徳兵衛はどうなん?」と感じたけど、実はそれがフィクションとノンフィクション、シリアスとコメディの中間(ていうかほぼコメディ)のこのドラマの軽みにピッタリなのであった。
7、8話は『曽根崎心中』と重なる場面が多くて楽しかった。ラストは最初から想像できてしまったけど(近松が『曽根崎~』を書いたきっかけを知っていたのと、この脚本家さんのパターンから)、問題ナシ。二人の若さに胸いっぱい。
一番最後に出てくる絵(あの絵好き笑)が、現代の大阪なのもいいね。天満屋がキャバクラ風になっとる。文楽は大阪の宝だと思う、本当に。
5話の『出世景清』の小野姫道行の場面で小野姫の人形(当時と同じに一人遣い)が斜め上を見上げる角度の透明感が勘十郎さんが遣う人形にそっくりで、勘十郎さんのお弟子さんか誰かが遣っているのかな?と思ったら、勘十郎さんご本人であった。
ときに人間が演じるよりも人形が演じる方が物語や世界がリアルに立ち上る、文楽マジック。「芸術の真髄は、実そのものの描写にはなく、虚と実の皮膜(微妙な境)にこそ存在する」とは近松の論。
一方で『曾根崎心中』という作品を現代に復活させたのは、文楽ではなく歌舞伎なんですよね。文楽と歌舞伎の関係も面白いものだなあ。
江戸時代に初演を含め数回で禁止されたが、筋が単純であることもあって長く再演されないままだった。詞章は美しいため、荻生徂徠が暗誦していたとも言われる(大田南畝「一話一言」)。戦後の昭和28年(1953年)に歌舞伎狂言作者の宇野信夫が脚色を加え、復活した。人形浄瑠璃では昭和30年(1955年)1月に復活公演が行われた。
(wikipedia「曽根崎心中」)
※「ちかえもん」、いよいよ最終回!(NHK関西ブログ)
※~物言う三味線を目指して~ 三味線 鶴澤寛治
襲名前のインタビュー。そういえば寛治さんも亡くなられたんですよね…。
三味線を聴くことの楽しさも、私は文楽から教えてもらいました(歌舞伎のときはどうしても役者に注意が向いてしまうから)。三味線というものがその音色であれほど豊かな表情を表出させることのできる楽器であるなんて、以前は知らなかったもの。
「仮名手本忠臣蔵」の九段目。雪の積もる山科の家へ、大星由良助が帰って来る場面。弾き出しの「チンテンチンテン」が、なかなかうまく弾けなかった。景色が浮かばなかったのだ。
後日、北海道の雪深い旭川での巡業でヒントをつかんだ。どす黒い雲が空を覆い、雪が降っていた。前から黒いものが飛んで来るのが見えた。犬だった。その時、思わず「チーンテン」と口三味線を口ずさんでいた。
雪の降る音、ツララ、雨だれ、風の強弱、自然の音をはじめ、登場人物の心情などを音で描写する。「弾く人間の思い、つまり“腹”をやかましく言いました」と振り返った。
文楽の三味線は伴奏ではない。太夫の語り、人形の動きと一体となって舞台を作り出す。
「雪の手(弾き方)とか決まっていますが、今一度、物語るような三味線が弾きたい」
という念願を新たにしている。
※七代目鶴澤寛治 彦六系芸風を引き継ぐ唯一の伝承者(2013年10月31日 文楽ポータルサイト)
上記とともに大変いいインタビューなので、ご興味のある方はどちらも是非サイトで全文をお読みください。
― 師匠の思い出に残っていらっしゃる太夫さんはどなたでしょうか。
竹本錣大夫さん、ケレンものが得意でして、チャリは日本一でした。
錣太夫さんは落語にあるような、浄瑠璃を質屋に入れたという人でした。父が鴻池さんのご本家で浄瑠璃を語りに、錣大夫さんと行ったんです。お座敷で当主に「今日は何を語ってくれるのや?」と聞かれ、「今日は、こんなもんをやろうと思うてまんね」と言うたら、ご本家は「すまんが、油屋(伊勢音頭)をやってくれ」とおっしゃる。
錣さんは、「いや、今日はやれまへんね」
「あんたいつもやってはんねんのに、何でやれへんねや?」
「あれやったらいけまへんね、いまやれまへんね」
「なんでや? そな言わんと、やってえぇな。頼むさかいに」とおっしゃる。
しかし、錣さん、頑としてやりまへん。
しばらくの間、ご本家は考えて、「ひょっとして、あんたそれ質屋に入れたんとちがいまっか?」
「そうでんね」と錣大夫さんは答えました。
ご本家は、「質札を持って本(床本)を取ってきなさい」と、番頭さんを質屋へ向かわせ、本を取ってきて、錣大夫さんと父(先代寛治)は油屋をやったといいます。
― いいお話ですね。
本当の話です、落語じゃなく。
― 質屋さんは太夫さんの本でもお金を貸してくれたんですね。
はい。質屋さんもお金を貸してくれるし、太夫さんも質屋に入れたら節度をもって絶対その浄瑠璃はしなかったですね。えらいな~、と子供心に思いましたね。それは、昭和の初めのこと。私が入る前の話です。
― 粋ですね。芸をするほうも、また聴く人、支える方も粋ですね~。
時代も変わりましたね。文楽の世界だけではないと思いますわ。時代の大きな変化がありますから、そんな粋なさまを見るのはなかなかないですね。文楽を取り巻く世界も変わりました。稽古の仕方も変わってしまいましたね。昔は太夫さんがお弟子さんをもったら、三味線弾きさんに預けたりしました。声の出し方や間の取り方をね。ある程度出来上がったら太夫の師匠が稽古をつけるんです。
― 三味線さんに預けるのはなぜなんですか?
三味線弾きさんが、この子の声はええな、これやったらこういう語り口をやらさないかんなとか、この子は三段目の語り口をやらさないかんなとか。それを仕込んでくれるのが三味線弾きなんですね。
ところが戦後、父(先代寛治)や喜左衛門師匠が亡くなれてからは、太夫は太夫が教えるもんやという風潮になりましたね。本来は三味線弾きが、赤ちゃんを育てるように方向性を決めて稽古してあげるのがいいんです。
父がよく言いました。「お茶碗一つ叩いたらチーンと、いい音がする。割れてしまったらもう二度とチーンという音は出ぇへんで。それと同じで、声を潰してしもうたら二度と声が出ない。初めが肝心や。デハ(初め)を考えないと太夫は育たんのんです。
いろんな太夫の語り口があって、お客さんは楽しまれたんですね。千代の南部さん、土佐大夫さん、上手なかたには「待ってました!」と声がかかりました。いっぱい個性的な太夫さんがいてはりましたな。今は特徴的な方が少なくなりました。浄瑠璃を聞いてますとみんな同じですわ。それじゃ文楽は続かない。今の太夫さんは、太夫が教えるようになってます。三味線弾きは声のいい太夫を弾くこともあれば悪い人のを弾くこともある。三味線を弾きながら太夫の特徴をつかまえて教えます。あとで大夫の師匠からまた教わればさらにいい。でも、三味線弾きは太夫に教えても一銭の得にはならんのですけど、文楽全体のことを考えればそんなことは言ってられない。もっと三味線弾きが太夫を教えることは文楽のためには大事ですね。
(中略)
― 三味線の表情は技術だけではありませんね。
はい、心と情ですね。たとえば阿古屋をやったとき、文五郎師匠が私に「寛子ヤン、あんたは鮮やかに弾いてるけどな、人形遣いには鮮やかに弾いたらあかんのや。逆やんねん」。「三味線はこう構えて弾くやろ? 人形が三味線弾きと同じように弾いたらあかんねン」と言われました。
芸は、「嘘」をほんまらしく、オーバーに表現する。
昔、舞台で「これは雪の手です」、「これは風の手です」「これは・・・」、と解説をして舞台から降りたんです。舞台から降りてきたら、父が「嘘ばかり言いやがって。お前は詐欺師じゃ」と怒るんです。
「雪はチンチンと、これは雪の手じゃないですか」と言うたら「それは三味線の手じゃ」、と。「雪というのは、どんな雪やろ?とお客さんが聞いてて想像してこそはじめて雪の手や。お前は心で弾いてない。雪やない、ただの三味線の音や。雪の手を弾いてこんかい!」と言われましたね。
父は死ぬまで雪の手にこだわっていましたね。
九段目(仮名手本忠臣蔵 山科閑居)の最初もそうですね。「一番初めはどんなやったか知ってるか? 忠臣蔵九段目の雪は、雪が深くて吹雪いていて、チ~ンチ~ンと、雪が吹雪いているんのをお客さんが想像できるのが、ほんまの雪の手や」、と。私に伝えておりますけど、なかなか出来ませんけどね。父は「出来たときは死んだときやで」と言うてましたね。
★オマケ★
巣ごもり中の私に、巣ごもり中の友人から荷物が届きました。
手作りのフルーツケーキ、それに合うワイン、手作りのハーバリウム、手作りのマスクと市販のマスク。いつもありがたい。
とブログをインスタ風に使ってみた笑。