特殊清掃「戦う男たち」

自殺・孤独死・事故死・殺人・焼死・溺死・ 飛び込み・・・遺体処置から特殊清掃・撤去・遺品処理・整理まで施行する男たち

新生の希望

2010-12-19 15:04:19 | Weblog
前回は、ホントに情けないことを書いてしまった・・・
私に対する個々の心象とは別に、私が発するマイナスのオーラが、誰かに伝染していないか、周りに害を及ぼしていないか気になる。
それでも、人は、励ましのコメントを書いてくれる。
多くの人が、私の欠陥やウサン臭さを攻撃することなく、励ましてくれる。
今は、外からくることに対して涙するほどの体温さえ失った状態だけど、本来の私なら、涙するところ・・・
アルコールでも入って、ホロ酔っていたら号泣するところだ。

いつの頃からか、私は涙もろい人間になっている。
“冷めたヤツ”“機械みたいな人間”と言われていた若い頃がウソのようだ。
人前で泣くのは避けているけど、現場で、車中で、自宅で、ちょっとしたことで目が潤む。
いい歳したオヤジが涙する姿なんて、美しくもなんともないけど、内から湧いてくることに対して少なくとも一週間に一度は泣いているように思う。
特に、最近は、二日に一度は泣いていると言っても過言ではない。
人らしくなったことはいいことかもしれないけど、この泣き虫はちょっとヒドイかも。
ただ、それらは、感謝・感動・喜び・苦しみの涙であり、悲しみの涙ではないことが救いである。

今のこれって、重症なのか軽症なのか、病気なのか気の持ちようでなんとかなるものなのか、自分でもわからない。
ただ、病院に行ったり薬を飲んだりする気にはなれない。
本質的に、それらに効果がないことは自分が自分に実証しているから。
ましてや、入院療養なんて、まっぴら御免。
その後、社会復帰できる保証はどこにもないうえ、そんなことしてたら食べていけない。
更にまた、それが原因で症状が悪化する可能性も大だし。
長期離脱した後に社会復帰する辛さがどれだけのものか・・・その辛酸を舐めたことがある私には、とてもそんな勇気は持てない。

勇気がいるのは、年末の風物詩である忘年会も同様。
やはり、この時季は、忘年会など飲み会が多くなる。
この精神状態で参加する飲み会は、かなりキツイのである。
ただ、幸いなことに、例年に比べて、今年は、参加しなければならない飲み会は少ない。
いつもは、だいたい4回~5回くらいはあるのだが、今年は2回。
一回はもう終わったので、残すところあと一回だ。
その日のことを思うとかなり憂鬱だけど、「たった数時間のこと」と思ってガンバルしかない。

若い頃は、“ノリの悪いヤツ”“付き合いの悪いヤツ”と思われるのがイヤだった。
でも、今は完全に“家飲み派”。
周りに評される付き合いの悪さもノリの悪さも、気にならない。
ストレスを感じながら飲む酒が美味くないことも理由にあるけど、その前に、人との会話がとにかく億劫。
元来、日常会話が下手な私。
興味・経験・知識を持っている分野に関することで質問に応えることや、決まったテーマで喋ることは、そんなに不得意ではないのだが、一般的な世間話や雑談は不得意。
したがって、できるかぎり、一人で大人しくしていたいのである。

今、内面はこんな状態でも、外観上は比較的普通に見えていると思う。
親しい人には正直な状態を伝え、顔つきに異変が表れていないか確認するようにしているけど、そうでない人には普通の態度を心がけて心情を吐露しないから。
程度に差こそあれ、世の中には、同じように重荷を背負い、逆境に耐え、もがき苦しみながら生きている人はたくさんいるだろう。
そして、私と違い、それでも楽観的にハツラツと生きている人もたくさんいるだろう。
そんな人達と自分を比べる必要はないのかもしれない・・・
そんな人と自分を比べることは愚かなことかもしれない・・・
しかし、そんな性質が与えられた人を羨ましく思い、変えたくても変わらない自分を惨めに思ってします。
この浮かなさは、ハンパじゃない。

ただ、こんな状態でも、希望がないわけではない。
今年は、受け止め方に変化がみられるのだ。
この陰鬱な苦悩は、自分が少しでもマトモな人間になるための、自分への訓戒、指導、教示、訓練ではないか・・・
今年は、何故かそういう受け止め方が与えられ、そこに希望を抱いている。

人(私)は弱い。
自分を変える力を持たない。
しかし、多くの人が、「自分を変えたい」といった願望を持つ。
理想の自分像を抱いている。
私にも、理想の自分がある。
「マトモな人間になりたい」という願望がある。
もちろん、私が私であるかぎり、人間が人間であるかぎり100%マトモになることはありえないのだけれど、それでも、少しでもマトモになりたいという願望と、マトモに変われるかもしれないという希望があるのである。

若い頃、
「他人は、自分を変えてくれない」「自分を変えられるのは自分だけ」
といった考え方を持っていた。
世の中に出回る自己啓発・自己改革のための思考法もほぼこれに類していた。
そのため、当時から“変えたがり”だった私は、そんな世の中の価値観を頼りに、自己啓発に勤しんだこともあった。
しかし、今は、
「変えることができるのは、表面的なことだけ」「本質的に、自分で自分を変えることはできない」
といった考え方になっている。

「人は、変わることができない」「自分を変える必要はない」
と言いいたいのではない。
「自分を変えたい」「自分は変われる」
と思うことを否定しているのではない。
「自分は、変わることができる」「自分は、自分を変えることができる」
との考え二つを混同して過信しないことが自分には大切であることを、自分に理解させたい。
そして、虚しい疲労感をもたらす余計な力みを自分から抜きたいのである。

皮肉なことに、「変わりたい!」と必死になれるのは、苦しいときや悲しいときが多いのではないだろうか。
残念ながら、嬉しいことや楽しいことをきっかけとして、自分の深いところは、なかなか変えられない。
人は、辛いことや苦しいことを通してこそ、真に変えられるのではないかと思う。
自力で変えられないことが変えられるために、この欝があるとしたら、まんざら悪いことばかりではない。

これは、
「生まれ変われるチャンスは毎日にある」「ピンチは絶好のチャンスになる」
といったありきたりの言葉では伝えきれないもの。
また、
「苦悩は新生のチャンス」
として、安易に薦めることはできないもの。

それでも、このまま、陰鬱な悩みに支配されて老いていきたくはない。
自分の死期を悟ったとき、
「あー・・・おもしろかった!」
と、微笑める人生にしたい。
そのためにも、この時期を、新生のためのプロセスと捉えて希望を持ちたいと思う。
そして、これがいつまで続くかわからないものであっても、忍耐をもって過ごしたいと思う。




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