植民地戦争+α

歴史テーマの中量級のボードゲームを制作し、ゲームマーケットに出展しています。
なので歴史とボドゲの話が多いです。

潜水艦

2008年11月05日 22時38分00秒 | 国:ドイツ・オーストリア
 呉に旅行行って来ました。海上自衛隊が行っている「てつのくじら館」つまり潜水艦の資料館です。
 潜水艦は、以外に古くに作られており、最初の実戦的な潜水艦はアメリカ独立戦争で使用されたタートル潜水艇、実際に蒸気船を沈める戦果を出したのは、南北戦争で使用された人力推進潜水艇ハンリー。その後、1900年にガソリンエンジンで動く今の潜水艦の原型とも言うホーランド潜水艦がアメリカで作られます。
 しかし、この潜水艦を活用したのは、アメリカではなくドイツで、ドイツは第一次大戦で英国の船舶を潜水艦で襲うことで、英国の通商を破壊し、補給を絶つのに使用します。あまりの活躍に、ドイツ語の潜水艦=ウンターゼーボートはUボートとして、連合国を震撼させます。

 てつのくじら館では潜水艦の仕組みや、海に残された機雷の除去活動などに焦点が当てられていますが、20mm機関砲や実際の潜水艦の内部は見所満載で楽しめました。
 その後は、アレイからすこじまに行って停泊中の潜水艦を眺めて終了。とても満足な旅行でした。


 写真は、珍しい現在は内陸国となってしまったオーストリア・ハンガリー帝国の潜水艦隊員がつけていたバッチです。他国もあったのですが、やはりオーストリア・ハンガリー帝国の潜水艦は魅力的です。


てつのくじら館

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オーストリアの歴史的地域

2008年08月07日 12時26分46秒 | 国:ドイツ・オーストリア
 折角なので前回の地図を使って、今回はオーストリア帝国の版図を見てみましょう。
 地図で言えばオレンジの部分ですが、今のオーストリア、チェコ、スロバキアの全部と、イタリアの南チロルが、オーストリアの歴史的地域です。
 これにポーランド分割で得たポーランドとウクライナに跨る地域が加り、ヴェネチアを併合してアドリア海沿岸地域を獲得、最後にボスニアを支配下に加えます。このオレンジの地域と黄色のハンガリーの地域を合わせた広大な範囲がオーストリア帝国、ないしはオーストリア・ハンガリー帝国の版図となります。

 今の国で言うと、7カ国を完全に支配地域におき、さらに4カ国の地域にまで跨っています。まさに多民族国家の帝国です。

 ハプスブルク家は、実はオーストリアではなくスイス※1出身の貴族です。それが13世紀末にルドルフ1世が皇帝になると、ライバルであったボヘミア王※2兼オーストリア大公のオタカル2世を排除して、オーストリア※3の地を得ます。その後、チロル伯のマインハルト家が断絶すると、婚姻によりチロルを得て、15世紀にはスロベニアまでその勢力範囲を伸ばします。
 
 16世紀帝カール5世は婚姻によって、ブルゴーニュ公国領ネーデルラントとスペイン王国、ナポリ王国を手に入れヨーロッパ随一の帝国となりますが、これらの領土はスペインとオーストリアに分割され、スペイン側に相続されます。

 オーストリア・ハプスブルクはその後、16世紀から17世紀にかけてボヘミアを得、またハンガリー王位を兼ねるようになります。ここまでがオーストリア帝国の歴史的な地域と言えるでしょう。

 その後、18世紀にポーランド分割によりポーランド南部とウクライナ東南部、ナポレオン戦争後にヴェネチアとザルツブルグ、そして第一次大戦の直前にボスニアを得て、そして第一次大戦後にオーストリアはそれぞれの国に分割されてしまいます。

※1:スイスは当時まだ神聖ローマ帝国内の領土でした。スイス東北部のライン川上流域にハビヒツブルグ(鷹の城)古城が現存しており、ここがハプスブルグ家の起源とされています。

※2:ボヘミアはプシェミスル家による世襲国で、神聖ローマ帝国に帰順したことで、オーストリアを得て、また神聖ローマ帝国内でも高い地位を得て、皇帝の座を狙うにまでになります。あまりにも力を付け過ぎたのが災いして、他の諸侯の警戒を招き、皇位争奪戦でハプスブルグ家に負けてしまいます。

※3:このオーストリアとはウィーン周辺の地域だけで、チロル州やザルツブルグを除きます。

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ハンガリー歴史的地域

2008年08月02日 23時09分55秒 | 国:ドイツ・オーストリア
 前回掲載したTシャツの裏に使ったハンガリー王国の版図がどれほど今のハンガリー共和国と違うか描いてみました。

 図の黄色の範囲がハンガリーの歴史的地域。今のハンガリーとスロバキアの全土、それにルーマニアの1/3の地域を占めるトランシルバニア、それにウラクライナやセルビアの一部に跨り、そしてクロアチアの沿岸部以外の地域を支配しています。クロアチアに関しては同君同盟でクロアチア王位をハンガリー王が兼ねる形です。

 ハンガリーに住む人はハンガリー人とは言わず、マジャル人といいます。マジャル人はアジア系の騎馬民族で、パンノニアのハンガリー平原に9世紀頃に定住し、王国を築きます。周辺はダキアのルーマニア人以外はあとはスラブ人です。
 建国したハンガリー王国は、強く、北のスロヴァキア、南のクロアチア、そして西のトランシルヴァニアと周辺の地域を支配下に置いていきます。東だけ神聖ローマ帝国領だった為、東にはその勢力範囲は拡大していません。
 この拡大した地域が、ハンガリー王国の歴史的地域となります。

 しかし、13世紀に南からオスマン帝国の侵略に遭い、1526年のモハーチの戦いでは国王ラヨシュ2世が戦死すると王家は断絶し、王位は姻戚関係にあったオーストリア大公のハプスブルク家が継承することになります。
 領土は中央部をオスマン帝国が直轄支配し、ハンガリー支配下で一定の自治を持っていたトランシルヴァニア候は、ハンガリーではなくオスマン帝国を宗主国とする公国になります。
 オスマン帝国の支配が及ばなかったスロヴァキアと、ハンガリーの東部分がオーストリア領下に入ります。

 そして150年後の1683年に第2次ウィーン包囲でオスマン帝国が敗退すると、オーストリアが攻勢を掛け、カルロヴィッツ条約でハンガリーほぼ全域がハプスブルク帝国下に組み込まれることとなります。

 その後、1867年にアウスグライヒにより、オーストリア・ハンガリー帝国が成立するも、第一次大戦に敗退すると1920年のトリアノン条約によってハンガリーは今の領土に削られてしまいます。

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双頭の鷲(わし)の下に

2007年11月07日 21時30分20秒 | 国:ドイツ・オーストリア
NHKのBS-Hiで12日・13日・14日と3日間、ハプスブルク帝国の特集が行われるそうです。サブタイトルは以下の通り。
 第1回「双頭の鷲の下に」
 第2回「女帝マリア・テレジア」
 第3回「美しく青きドナウ」
『「ヨーロッパは一つだ」という思いがあるのは、かつてそれを成し遂げた国家があったからだ。一つは古代ローマ帝国。そしてもう一つはハプスブルク帝国である。』と書かれており、ちょっと持ち上げ感がありますが、『ハプスブルク帝国の700年に及ぶ歴史を紹介しつつ、独特の文化を花開かせた三つの時代に主なスポットをあてる。』とあり、単に歴史だけでは終わらない感じがあり、今まで知っている知識とは違った側面からハプスブルグを見れそうで、とっても楽しみです。

NHK BSオンライン

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ハプスブルグ一千年

2007年07月22日 12時14分55秒 | 国:ドイツ・オーストリア
 最近、歴史好きに私がした(*^_^*)知り合いから、「ハプスブルグ一千年」と言う本を頂きました。
 これだけオーストリア・ハプスブルク家をこのブログで語っているのですが、ちゃんと同家の頭からの歴史をちゃんと読んでいなかったので調度良い機会でした。

 まず、読んでびっくり! この本の書き方が、雅な王侯貴族は名古屋弁でこのように話したんだと、文中の台詞が名古屋弁なのに笑いました。あと、婚姻で家領を広げていったのを現すためか、ことさら風俗や下のネタが多く書かれていました。

 生真面目な人は眉をひそめるかもしれませんが、ある意味歴史をお堅い読みものと思っている人には、その概念を砕く内容ではないでしょうか?

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リヒテンシュタイン公国

2007年06月19日 13時02分54秒 | 国:ドイツ・オーストリア
 リヒテンシュタイン公国はスイスとオーストリアに挟まれた小国です。しかし、その国王は世界に名だたる資産家です。この資産が、リヒテンシュタイン公国から得たものかと言うとそうではなく、あまたの経済活動の結果と、ハプスブルグ家に仕えていた際に蓄えられていたもので、公国から宮廷費用すら貰っていない。それどころか、戦災のおりには逆に国民が貧困に喘ぐのを見かね無償で生活資金を貸し付けたりするなどしています。

 リヒテンシュタイン家は、下級貴族の出ながら、当時の皇帝を輩出していたハプスブルグ家に使え、三十年戦争際に金銭的な援助をするなどを行い、念願の爵位を得ます。しかし、このときは領土が無かった為、ハプスブルグ領内に土地を所有しているだけでした。
 しかし、1699年に負債に喘ぐシェレンベルク男爵から、オーストリアの西にある男爵領を購入、つづいて1712年には隣接するファドゥーツ伯領を購入し、両領土を合わせて、皇帝より神聖ローマ帝国に属する領邦国家リヒテンシュタイン公国として認められます。
 これがリヒテンシュタイン公国の始まりです。念願の爵位と自領を持ったリヒテンシュタインは、これ以上の領土拡張を求めることは無く※1、依然ハプスブルク家に仕え、ナポレオン戦争の際ヨーハン1世はオーストリア軍の司令官にまで任命されます。
 このナポレオン戦争によって、神聖ローマ帝国が崩壊すると、リヒテンシュタイン公国は他のドイツ諸侯と同じく独立国になります。しかし、他のドイツ諸侯が普墺戦争後、北ドイツ同盟そしてドイツ帝国へとなっていくのに対して、領土が隣接していなかったこともあり、公国として残り続けます。そして第一次世界大戦後でオーストリアからハプスブルグ家が排除されると、オーストアでなくスイスと関係を深めます。
 この結果、第二次世界大戦への過程でナチス・ドイツがオーストリアを併合した際も、独立国として残り続け今に至ります。

 まさに小国ながらも見事なまでの舵取りで、公国を存続させ続けたのでした。


※1:自領外のプラハやモラヴィアなどにも領土(土地)を多く持っており、主たる居宅もウィーンやモラヴィアにありましたが、1919年のチェコスロバキアの独立と、1945年のチェコの共産化によって多くの家産が失われてしまいます。

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オーストリア継承戦争

2007年05月19日 23時42分59秒 | 国:ドイツ・オーストリア
 随分前にオーストリア継承戦争を書くといっておりましたが、やっとTRPGでの継承戦争が終わったのでネタバラしをしながら、史実の継承戦争を書いていきたいと思います。

 まず、オーストリア継承戦争の引き金となるマリア・テレジアの父カール6世が亡くなるのは1740年10月です。ゲームでは管理の都合1月にしてしまいました。その為、2月に死ぬ法王と順序が逆になってしまいました。

 史実では、まず動いたのはプロイセンです。2ヵ月後の12月にはロレーヌ公フランツ・シュテファンに皇帝に投票することを条件にシュレージエンの割譲を求めてきます。しかしオーストリアは拒否。同月にプロイセンはシュレージエンを占領してしまいます。
 これに対してオーストリアは春を待ち翌年4月にモルヴィッツで決戦を行いますが、火力に勝るプロイセン軍にオーストリアの騎兵隊は敗れてしまいます。これが引き金となって、ザクセン・バイエルンから宣戦布告を受け、フランス・スペインからの介入を受けることになります。

 ゲームでは、先にバイエルン・ザクセンを動かしました。これは「ハプスブルグの宝剣」に沿った為です。また、プロイセンの占拠よりも、バイエルン・ザクセンが王妃の相続件を主張するのが理に適っていると考え、またバイエルン・ザクセンは前哨戦、プロイセンを本番にすべく順序を変えました。

 史実では、オーストリアとプロイセンが割譲で和睦した後、1741年中にバイエルン・ザクセンが宣戦布告してきます。ちなみにザクセンはすぐに和平交渉により和睦してしまいます。

 残ったバイエルンはフランスの協力を得て、チロルなどの上オーストリアとベーメン(ボヘミア)を占拠し、バイエルン公カール・アルブレヒトは、1742年には神聖ローマ皇帝カール7世として戴冠してしまいます。
これには弟が、ケルン大司教(選帝侯)だったのが大きかったようです。
しかし、すぐにハンガリーの協力を得たマリア・テレジアに破れ、バイエルンを奪われてしまい、1745年に失意のまま亡くなります。
 このオーストリア優勢に焦ったのがプロイセンです。このままではシュレージエンの確保も難しくなると考え、シュレージエンから南下しベーメンに侵攻し、オーストリアと激突します。この戦いはプロイセンが勝ったものの、プロイセンの被害も大きく戦争を継続することが出来ず、両国は1745年ドレスデンで、プロイセンのシュレージエン領有を確約する和睦で終結させます。
 この流れは、小説もほぼ同じです。ゲームで遊んだ際は、最後に強引にプロイセンがザクセンからベーメンに侵攻するって言うのも手だったのですが、ゲーム時間の都合もあり、バイエルンが大敗した時点で終結にしてしましました。

 小説にはないのですが、史実ではこの後戦争は、1744年に正式にオーストリアに宣戦布告し表舞台に立ったフランスが、フランドルに侵攻し英蘭墺の連合軍を破って占拠します。しかし、北米の英国との戦いに負け、1748年にアーヘンにて和約が結ばれフランドルから撤退し終結します。
 結局この戦いでは、プロイセンがシュレージエンを得、英国が北米の植民地を広げます。一方、フランスはハプスブルク家を弱体化させることに失敗し、ここで使った戦費が後のフランス革命の遠因となります。
 そのオーストリアはシュレージエンを失ったものの、それ以外の領土は確保し、マリア・テレジアの継承を確立させます。しかし、マリア・テレジアはこの時、失ったシュレージエンを奪い返すことを心に誓うのです。これが七年戦争と呼ばれる戦争になります。

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オーストリアの海

2007年04月23日 18時14分16秒 | 国:ドイツ・オーストリア
 バイエルンとザクセンが海を持っていないと言う話しから、今日はオーストリアの海についてです。

 現在、内陸国で海軍を持たないオーストリアは、以前はアドリア海(イタリア半島とバルカン半島の間の海)に面しており、海軍を持ちイタリアと何度も交戦したり、第一次大戦では中国まで艦を派遣しています。
 この一部の人には熱狂的に愛されているオーストリア海軍ですが、オーストリアが海に面したのは、以外に古くボヘミア(=チェコ)やハンガリーを取得する以前の 15世紀には今のスロベニアを所領しています。
 しかし、当時のアドリア海は海運国家ヴェネチアの庭であり、その先の東地中海はオスマン帝国の支配下にあった為、実質海軍は持っていなかったようです。
 それが、オスマン帝国とヴェネチアの衰退、特に19世紀頭のウィーン会議でヴェネチアを領土としてから海軍を設立し、アドリア海や地中海、そしてその先までに航行するようになります。その中心地として栄えたのはヴェネチアではなく、お隣のトリエステで、トリエステはオーストリア唯一の軍港として戦艦や潜水艦を建造し、その母港となりました。

 しかし、第一次世界大戦に敗北すると、ヴェネチアとトリエステはイタリアに割譲され、またスロベニアは、後のユーゴスラビアとして独立してしまい、オーストリアは海を持たない内陸国になってしまいます。

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バイエルンとザクセン その2

2007年04月16日 21時44分21秒 | 国:ドイツ・オーストリア
 前々回に続いて今回はバイエルンがドイツを統一する可能性を見てみようという話です。
 バイエルンは現在のドイツ南部。東西に分かれていた際は西ドイツの南東部にあたり、オーストリアと国境を大きく接しています。
 1180年にヴィッテルスバッハ家の所領となって以来、同家が治め続けます。同家はプファルツも所領しますが、プファルツがプロテスタントとなった為、プファルツのヴィッテルスバッハ家と、バイエルンのヴィッテルスバッハ家は三十年戦争で同じ家同士で骨肉の争いを行います。
 その争いで、バイエルン側が一応の勝利を収め、選帝侯の地位を得、有力貴族となり、1742年にはハプスブルク家がカール6世からマリア・テレジアへの継承問題に乗じて、バイエルン公カール・アルブレヒトが、神聖ローマ帝国の帝位につきます。
 しかし、その直後、ハンガリーを味方につけたマリア・テレジアの反撃に遭い、バイエルンを追放され失意のうちに亡くなります。
 その後、後を継いだ息子のマクシミリアン3世ヨーゼフはマリア・テレジアと速やかに和睦し、次期皇帝にマリア・テレジアの夫フランツ・ヨーゼフに投票することでバイエルンを存続させることが出来ます。
 その後のバイエルンは、ナポレオン戦争でバイエルン王国となり、普墺戦争ではオーストリアにつき敗北しプロイセンに賠償金を払う義務を負い、その後ドイツ帝国内での王位を持ち続けながらも、第一次世界大戦中に起こった革命によりドイツ皇帝とともに廃位させられます。

 バイエルンから出た神聖ローマ帝国皇帝(ドイツ王を含む)は、カール・アルブレヒト以外に2名で、いづれも世襲化することなく終わります。

 これらの歴史を見てみると、少しは望みがありそうな気がします。(いや、殆ど無いかもしれませんが…)


 というのも、この歴史の「もし」を題材として、宗主国としてプロイセン以外にザクセンやバイエルンを作るのも面白いかな~って考えたのですが、よくよく考えてみると、海に面していないのでプロイセンと違ってドイツを統一しない限り、海外に植民地をもてないじゃん!

 ってことで無理ですか…(^_^;)

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バイエルンとザクセン

2007年04月13日 21時22分11秒 | 国:ドイツ・オーストリア
 昨日、プロイセンのプレイレポートを上げましたが、プロイセンは現在のドイツの元となった国で、神聖ローマ帝国内のブランデンブルグ辺境伯が力を付け、選帝侯と言う皇帝を選出する選挙権を得た上に、神聖ローマ帝国外のケーニヒスベルク(現カーニングラード)を支配していたドイツ騎士団と同君連合になったことで、その領地を得、その地で王になることを各国に認めさせたことで、1701年にプロイセン王国が建国します。
 その後、プロイセンは富国強兵に勤め、神聖ローマ帝国の帝位を独占していたオーストリア・ハプスブルグに変わり、ドイツ諸侯を取りまとめ、1866年の普墺戦争に勝利して北ドイツ連邦の盟主となり、後のドイツ帝国の母体を完成させます。

 このゲームでは、プロイセンは北ドイツ同盟を表し、同盟カードにより国力を増大させることが可能です。勿論、それを交渉カードでつぶすこともできます。
 フランスなどが妨害し、その報復として対仏戦を行うなんてストーリーは史実を髣髴させる流れです。

 ここからですが、同じ神聖ローマ帝国内において同じく選帝侯の地位を得ていた有力諸侯であるザクセンやバイエルンが支配することは出来なかったのか? と言うのが今日の話題です。

 ザクセン公国は、神聖ローマ帝国の初代皇帝となったオットー1世の本拠地で、皇帝になると留守にすることが多かった為、領地を家臣に任せます。その後、その家臣の家柄が途絶え、最終的にはヴェッティン家の領地となります。ザクセン公は選帝侯の地位は得るものの、以後皇帝を輩出することはありませんでした。
 一方、17世紀末になると、時のザクセン公フリードリヒ・アウグスト1世はポーランド王を兼、これが縁で19世紀初めナポレオンに協力し、ライン同盟に参加すると、ナポレオンによって建国されたポーランドのワルシャワ公国の王位を兼ねるなどします。
 しかし、ナポレオン敗退後、プロイセンとオーストリアが争った普墺戦争でオーストリア側につき敗戦した為、北部をプロイセンに割譲された上、プロイセン主導の北ドイツ同盟に組み込まれてしまいます。

 この過程から見る限り、ザクセンによるドイツ統一のストーリーは難しいかな…(-_-;)

 次回は、バイエルンを見てみましょう。

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