植民地戦争+α

歴史テーマの中量級のボードゲームを制作し、ゲームマーケットに出展しています。
なので歴史とボドゲの話が多いです。

ヴァロアの残り火

2007年09月20日 12時50分50秒 | 国:フランス
 一昨日、アンリ2世統治下のフランスを舞台として、平安絵巻のルールを使用して、TRPGを行いました。
 兼ねてから、ユグノー戦争時代のフランスで、王位継承権を持つPCが王位を目指すものをやってみたいと思っており、そのテストとして急遽、ユグノー戦争の少し前の時代設定で遊んでみました。
 PCは以下の3名です。

 ルッソ・サルバトーレ(20歳) ・・・ プロヴァンス公次男
 ブラン・ド・ブルボン(15歳) ・・・ ナヴァール女王ジャンヌとブルボン公の次女※1
 アンリ・ロベール伯(32歳) ・・・ フランソワ皇太子※2の家庭教師で司祭


 最初はルッソがイタリア戦線※3に赴いていたいとの要望から、モナコ砦を攻略するところから始めます。難攻不落の要塞ですが、敵の北面の守備隊長相手にクリティカルが出てしまい、一刀両断という事でそれが引き金になって、雪崩をうって砦攻略成功にしてしまいました。
 一方、プレイヤーの出会いの機会として、王宮では諸侯を集めて、皇太子フランソワとスコットランドから来た婚約者メアリー・スチュワートのお披露目を行いました。
 PCが主要なNPCを見たり話したりする中、数日の会の途中でモナコを攻略したルッソがさっそうと現れ、遅れたお詫びにと「この勝利を王に!」と王のご機嫌を取ります。そこでマスターは、今後のシナリオ展開を面白くさせるために、王が感激し「我が娘を嫁にどうか?」と言い出したことにします。さすがにこの申し出にルッソは即答することが出来ず、「まだまだ若輩ゆえ…」と辞退します。

 社交会が終わると、このお披露目で主役より有名になったルッソをダシに使おうとロベール伯が動き出します。現在の王宮は、アンリ2世の愛人ディアヌと、アンリ2世が父と慕うモンモラシー元帥が王妃カトリーヌを凌いで一大勢力を築いています。
 また、皇太子にメアリーを嫁がせることで、メアリーの叔父に当たるキーズ公が次第に発言権を強めてきました。このままではどんなに皇太子フランソワが立派に育とうとも、有力貴族が勢力を振るうことになると案じ、フランソワの為の勢力を作ろうと腐心します。
 まずは、フランソワの親衛隊長にルッソが任命されるようにフランソワからアンリ2世にお願いさせます。また、ルッソのお披露目として馬上槍試合を行うことを提案します。
 しかし、これをマスターが改竄し、馬上槍試合の勝者をフランソワの親衛隊長に任命することにしてしまいます。

 一方、ブランはポルトガルの王子との婚約を蹴って、王宮に残ることを母に頼み込みます。娘の強い思いに打たれ、母はルッソの父であるプロヴァンス公に娘を預けるお願いをします。これにはもう1つ、王の信頼を得たプロヴァンス公一族との繋がりを持とうとする狙いもありました。

 そんな思惑が錯綜する中、馬上槍試合が行われます。この試合にはなんと馬上槍試合好きのアンリ2世もシードで出場するなど、みなを驚かせます。しかし、これは更なるマスターの策略でもありました。
 ルッソは1回戦を無事突破したものの2回戦で敗退してしまいます。これによってNPCだけとなったトーナメントはマスターの良いように扱われ、最終のアンリ2世の試合になります。歴史に詳しい方なら気づいたかもしれません。史実の通り、アンリ2世は馬上槍試合の中、偶発的に事故で相手に右目を貫かれてしまい、重症を負います。※4
 この後、王宮では有名な外科医が治療を施しますが、報われず王が最後に王妃カトリーヌに顧みなかったことを謝罪し息を引き取ります。

 そして王宮の勢力図が塗り換わります。王の死によって寵愛を失った愛妾ディアヌが失墜します。そして新たな王の妃となったメアリーの権威を使って力を強めたキーズ公がモンモラシーを蹴落とします。
 一方、1つ史実と違ったのは、フランソワ2世がまだ成人を向かえる前の13歳であったことでした。これにより、国母カトリーヌか筆頭親王であるブルボン公が摂政になれます。カトリーヌは接近してきたブランを使い、実権を握るブルボン公の妻ナヴァール女王ジャンヌと交渉の場を設けます。
 これによって駄目旦那であるブルボン公が摂政になっても仕方ないと判断したジャンヌは、カトリーヌとの同盟を取ります。カトリーヌに摂政を譲る代わりにその見返りとして、ブランにカトリーヌの息子との結婚を約束させます。※5
 ブランは、次男のシャルルと三男のアンリのどちらとを考えた末、アンリを選びます。
 これらの策謀が渦巻く中、ロベール伯がフランソワの即位の儀式を執り行います。(これも完璧に判定に成功したため、一挙にロベールの宗教的名声が上がります)

 しかし、落ち着くまもなく、王の死を突いて神聖ローマ帝国がライン川を越えて来ます。防衛の任に就いていたルッソの兄の死が伝えられ、さらにそれに乗じてフランス北部のカレーで英国の支援を受けたプロテスタントが反乱を起こします。
 これに対して、キーズ公を総司令官としてルッソも派遣されます。ルッソは兄の敵を討つためにライン戦線へ、キーズ公はプロテスタントを鎮圧する為にカレーに向かいます。
 戦争は、両キャラクターの大活躍でフランス軍は快進撃を行い、ライン戦線ではライン川を越えてプファルツまで進軍し、皇帝軍を打ち破りアルザスを得ます。また、北部もプロテスタントの鎮圧だけでなく、200年にも渡って英国の大陸の拠点であり続けたカレーが陥落します。※6

 この大きな勝利を持ってパリに凱旋すると、ちょうど王が14歳の成人を迎える日と重なり、フランスは三重もの喜びに包まれます。この勝利の褒美として、キーズ公は元帥の地位を戴き、ルッソはなんと前王の際に辞退した王女(フランソワの姉)との結婚を望むのでした。

 しかし、そんな絶頂の中、元々結核に掛かっていたフランソワが倒れ、そのまま亡くなってしまいます。僅か半年の在位でした。※7
 これによって弟のシャルルが即位し、外戚で無くなったキーズ公の権力は弱まり、カトリーナは再び摂政の地位を得たことで、キーズ公に対抗できる権力を得ます。
 この王宮内の動乱を見ながら、フランソワの葬儀を終えたロベール伯は皮肉にもフランソワ即位の際の儀式が評価され、ローマから枢機卿になるべく赴任しないかの打診が来ます。フランソワの死によって王宮に身を置く意味を失ったロベール伯はローマに向けて旅立ちます。

 そしてフランスでは、新たな王シャルルの即位と、王弟アンリとブランの挙式※8、王姉※9とルッソとの挙式が行われ、次代の到来を感じさせながら終幕となりました。

エピローグ:翌年王姉とルッソとの間には男児が生まれます。王姉の子なので、筆頭親王であるナヴァールのアンリを抜く王位継承権保持者になります。また、5年後にはブランとアンリ(後のアンリ3世)との間には女児が生まれることになります。ここまでダイス判定して、次回への引きをつくり終わりにしました。


※1:史実では、ジャンヌとブルボン公の子として後にブルボン朝を開く、アンリ4世がいます。アンリは当時4歳になります。シナリオでは7歳としてしまった。(^_^;)

※2:フランソワ。アンリ2世の長子で、アンリの死後フランソワ2世として即位します。このシナリオでは13歳としました。史実どおり、初めから咳き込むなど、結核で病弱だと匂わせていました。

※3:イタリア戦争。1521年-1544年、広く取って1494年-1559年の間行われた神聖ローマ帝国・スペインと、フランスとの間で行われたイタリアの支配権を争った戦い。このシナリオの当時、ミラノなどイタリアの支配権は神聖ローマ帝国に落ちており、史実では2年後にフランスはカトー・カンブレジ条約でイタリアへの権利を放棄することになるのですが…

※4:史実ではアンリ2世は、1559年6月30日娘のエリザベートとスペイン王フェリペ2世の結婚を祝う宴の一環で行われた、馬上槍試合において、対戦相手のモンゴムリ伯に偶発的に右目を貫かれ、それが元で死亡します。シナリオでは2年早めたことになります。

※5:王子の結婚相手は外国の王族というのが慣例ですので、ナヴァールの次女と言う設定のブランとの結婚はちょっと無理がありましたが、今後のシナリオ展開を考え、プレイヤーが絡めるようにしちゃいました。

※6:1558年にキーズ公フランソワが奪還するのは史実どおりです。

※7:史実では1559年15歳で即位した後、先天性の中耳炎で翌年無くなっています。アンリ2世の死を2年早めたので、13歳で即位14歳で死亡となりました。

※8:当初ブランはプロテスタントのまま挙式を上げる予定でしたが、ロベール伯の陰謀により、カトリックに改教してから挙式する事になりました。ブログでは割愛しましたが、実際はPCにもカトリックやプロテスタントの立場を決めていただいた上でプレイしてもらいました。

※9:史実では、アンリ2世の子供としては、フランソワが長子の為実際は姉はいません。妹に後のアンリ4世の妃となるマルグリットなどがいます。

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ノストラダムス

2007年09月11日 21時53分52秒 | 国:フランス
 ハプスブルグの宝剣でファンになった藤本ひとみ先生の本の紹介です。題名は預言者ノストラダムスなんですが、内容はフランス王アンリ2世の王妃で、その後続く、フランソワ2世、シャルル9世、アンリ3世の母として摂政として、フランスの国政を握ったイタリア女、カトリーヌ・ド・メディシスが主人公と言ってもよい内容です。
 カトリーヌはフランス王妃になるものの、王には20歳も年上の愛人が居て、自分のことは見向きもしてくれない。常に王宮では愛人の下を甘んじなければならない不遇の中、ノストラダムスの預言書を読み、そして当人に会い、王の死とその後急変する政局を乗り切り、摂政として君臨するまでを描いた作品です。
 まだ上巻なのですが、すこぶる面白い! 時代的に前に紹介した「聖なる王権ブルボン家」のアンリ4世の少し前のお話で、そこに続く歴史が激動の物語として描かれており、とても面白いです。

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ナヴァール王国

2007年08月02日 19時37分54秒 | 国:フランス
 先日のブログで、ナヴァール王アンリ(後のフランス王アンリ4世)が出てきましたが、フランス王国においてナヴァール王とはどう言ったことでしょう?

 という事で調べてみました。ナヴァールは、ナバラともいい今のスペインからフランスに跨るバスク地方にあった王国です。このバスク人の国は、ローマ帝国時代から、フランスのフランク王国、スペインに西ゴート王国が建国しても独立を保っていたようで、さらに西ゴートがイスラム勢力によって滅亡した後に起こるレコンキスタにも参加し、スペインのレオン王国、アラゴン王国、カスティーリャ王国などと共に、イスラム勢力と戦います。11世紀にはサンチョ大王の元、これら王国の盟主として同君同盟を成立させますが、大王の死後分裂し、またアラゴン王国の勢力拡大などで、ナバラ王国自体の存続も難しくなってきました。
 16世紀には、アラゴン王国とカスティーリャ王国の同君同盟によって建国したスペインに圧され、フランスの支援を得るもピレネー山脈の南側のイベリア半島の領土をスペインに併合されてしまいます。
 残ったピレネー山脈の北側の領地だけで独立国家として一応の存続はしますが、フランス王国の封建制度下に入った為、フランス領内の一諸侯と見なされていたようです。
 アンリ4世の母親がこのナバラの女王で母親の死後ナヴァール王アンリとなります。

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聖なる王権ブルボン家

2007年07月28日 13時18分58秒 | 国:フランス
 今、「聖なる王権ブルボン家」を読んでいます。

 ほぼ初めてフランス側の本を読んでみたのですが、これがまた面白い。ハプスブルク家から見れば敵国として書かれてしまうのですが、ブルボンから見た同家の実情はそれはそれでとても楽しいものです。
 本ではブルボン家の5人の王の生涯が紹介されているのですが、最初のブルボン朝を興したアンリ4世の話が面白い!!
 若くして(幼くして)ナヴァール王となったアンリは、当時13歳のシャルル9世に従い全国を回ります。そこには後にユグノー戦争で敵味方に別れ、また王位争奪で熾烈な争いを演じることとなる、王弟のアンジュー公アンリや、ギース公アンリ、そして従兄弟のコンデ公アンリが居ます。みな10代前半の子供ですが、自らの王位継承順位や、プロテスタント、カトリックの代表として軍を率いることになります。
 ヨーロッパでは宗教の都合、同名は多いのですが、これほどまで同年代のそして競い合う者が同じ名前と言うのも珍しいのでは無いでしょうか?

 この時代、フランスはユグノーと呼ばれるプロテスタントの信者が多くなり、旧来のカトリック信者や貴族と衝突しだします。プロテスタント側にも貴族が現れ、王族を巻き込んでの戦争となります。
 後にこの戦いを制して、アンリ4世となるナヴァール王アンリは、母の影響からプロテスタントとして育てられるのですが、王宮に軟禁されカトリックに改教。そして王宮を脱出すると、プロテスタントに戻りプロテスタント軍の代表となります。しかし、王位が目の前にまでくると、プロテスタントであることが障害になります。するとアンリはまたもやカトリックに改教することで王位を得ることになります。
 これだけ書くと王位の為に節操無く改教しているように思われますが、それだけ熾烈な状況下に置かれており、その機転が彼を王にしたと言うことがよく判ります。

 是非、何かの機会にユグノー戦争時のTRPGをやりたいと思います。

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ブルボン・コーヒー

2007年01月23日 19時44分44秒 | 国:フランス
 私はコーヒーよりも紅茶党なのですが、それでもコーヒーは1日1杯は飲みます。日本では、豆轢きからインスタント、缶とあらゆる形で飲まれているポピュラーなコーヒーですが、このほど日本のコーヒー会社が現地と協力し、アフリカ・マダガスカル島沖にある仏領レユニオン島で、ルイ15世や文豪バルザックも愛飲していたという幻のコーヒー品種「ブルボン・ポワントゥ」を復活させたと言うニュースがありました。
 レユニオン島は喜望峰発見後、インド航路の中継としてポルトガルが港を開き、その後、フランスが所有し中継拠点として栄えます。その頃、奥地で珍しいコーヒーの品種が産出されると、フランス王宮で珍重されますが増産しにくいものだった為、1942年には輸出が途絶えたとのことです。
 この度、まだまだ生産量は少ないものの今春には輸出が再開されるそうです。何時お目にかかれるかは判りませんが、ルイ15世も愛飲したコーヒー機会があれば飲んでみたいものです。

幻のコーヒー「ブルボン・ポワントゥ」復活(朝日新聞) - goo ニュース
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毒殺

2007年01月22日 12時08分29秒 | 国:フランス
 goo ニュースにナポレオンが毒殺されたのではなかったと言う記事が出ていました。以前見たテレビ番組では、ナポレオンはワインにヒ素を混入された毒殺ではなく、セントヘレナ島で住んでいた家の壁紙に、当時当たり前のように使用されていたヒ素がカビで空気中に飛散し、それを吸った為にヒ素中毒で亡くなったのでは?と放送されていました。
 ニュースでは、ヒ素ではなく生野菜をあまり食べない軍隊食が長く続いた為に胃ガンで無くなったと出ていました。どちらも毒殺否定ですが、フランスでは英国による毒殺が今も根強く信じられているそうです。

 もうひとつ、同じ毒殺関連で、イタリアからメディチ家の当主フランチェスコ1世が毒殺であったと言う記事がありました。フランチェスコ1世はトスカーナ大公としてメディチ家の最盛期に当主になりますが、46歳で夫人とともに亡くなります。その後当主となった弟が屋敷に滞在していたことから、弟による毒殺説とマラリアによる病死説がありました。
 こちらは調査の結果毒殺とのことでしたが、中世ヨーロッパで如何に毒殺があったかを伺わせます。

ナポレオンは毒殺ではなく死因は胃がん=軍隊食も大きな原因(時事通信) - goo ニュース

メディチ当主は毒殺だった 伊科学者がヒ素検出(共同通信) - goo ニュース

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最後の授業

2006年11月13日 19時14分12秒 | 国:フランス
 皆さんは、授業でフランスのアルフォンス・ドーテの「最後の授業」が教材に使われていましたか? この作品は、フランス統治下にあったアルザス・ロレーヌ地方がドイツ領となった為に、先生がこれ以上生徒にフランス語を教えることが出来なくなったと言い、そして「最後の授業」を行うといったもので、学生ながら支配する国が変わることが大変なことだということを漠然と感じたもので、大人になっても唯一といって良いほど、記憶に残っている物語でした。

 このアルザス・ロレーヌ地方とは、ドイツ語読みすると、エルザス・ロートリンゲンとなり、「ハプスブルグの宝剣」で、主君フランツ・シュテファン・ロートリンゲンが治めていあのたロートリンゲン公領のことです。
 作品では、アルザス・ロレーヌ地方は、フランス領でもともとフランス語が話されていたように扱われていますが、実はフランク帝国崩壊後は、神聖ローマ帝国(ドイツ)の一領土として、ロートリンゲン公領の支配下にあり、ドイツ語系のアルザス語が使われていました。これが、「ハプスブルグの宝剣」でも語られた通り、マリアテレジアとフランツの婚姻と、ポーランド継承戦争の結果、フランス領になります。
 この地は、両国を唯一繋ぐ防衛上の要であり、また鉄鉱石・石炭を産出する重要な地であることから、以後両国で取り合いとなります。「最後の授業」が新聞に連載されだした1871年は、前年に普仏戦争で、フランスはプロイセン(ドイツ)に負け、同地を手放しており、それによってドイツ批判の世論の高まりを得て掲載されました。
 その後、ドイツは第一次世界大戦で負けると同地をフランスに割譲され、さらにナチスの断頭により第二次世界大戦が勃発し、パリが陥落すると同地はまたもドイツ領とされます。そして、大戦後は再びフランス領となり今に至ります。
 この様なフランスとドイツの遺恨の地であることから、州都ストラスブールには欧州の主要な機関の本部が置かれております。

 なお「最後の授業」は言語の多様性を否定する政治的な作品ということで、1985年以降は教材として学校では使われなくなったそうです。信念を持ち熱心に生徒に接する先生の姿はとても好印象を持っていただけに残念でなりません。

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レバノンはキリスト国家

2006年08月25日 22時33分37秒 | 国:フランス
 今、ニースで心配されているイスラエルとレバノンの戦争ですが、実はレバノンでもっとも多い宗派はキリスト教のマロン派だそうです。人口の約30%にあたり、以外はイスラムのドルーズ派や、シーア派、スンナ派、それにギリシア正教などの住民が住んでおります。

 今回は、このレバノンの歴史です。
 レバノンは、オスマン帝国時代にドルーズ派の領主が自治権を認められ治める領地でした。それが第一次大戦でオスマン帝国が敗れると、フランスがこの一帯を統治するようになります。この際、フランスはマロン派とドルーズ派が住んでいた本来のレバノン地域以外もレバノンとした広めな国境を引きます。これによって、フランスが設定したレバノンには、マロン派とドルーズ派以外に、イスラムのシーア派、スンナ派などの住民も混じるようになります。これは多くの宗派が混在した方が一致団結されず、フランスから独立し難くなるであろうというフランスの画策でした。

 この結果、独立後のレバノンは、大統領をキリスト教から出し、首相をイスラム教から出すなど、各宗派のバランスを取りながらの国政を行っていました。しかし、イスラエルとパレスチナの間に戦争が起き、パレスチナ難民がレバノンに逃れてくるとその扱いに各宗派で意見が別れ、これが原因でレバノンは内戦に突入してしまいます。
 隣国シリア軍の駐屯で内戦は終結しますが、駐屯の間に急進的なイスラム組織ヒズボラが結成し、今に至っています。

 今回、フランスがレバノンに派兵するのもこんな歴史的背景があるからなのしれません。

レバノン暫定軍、積極的な貢献確認へ…EU外相理事会 (読売新聞) - goo ニュース
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