世界をスケッチ旅行してまわりたい絵描きの卵の備忘録と雑記
魔法の絨毯 -美術館めぐりとスケッチ旅行-
夢の話:無際限の恐怖
家屋敷やビルなど、閉じた空間から脱出できたとき、開けた視野に、何の存在も察知できないこともある。それは、“見渡す限り一面に”という特徴を持つ世界。
見渡す限り一面の砂漠。あるいは一面の海原。溶岩が固まったばかりの、またはクレーターだらけの、一面の荒野。人っ子一人住んでいないとなぜか分かる、箱庭のような一面の住宅地。雑木と藪しかない、一面の山々。あるいは、絶対零度に程近い、鋼鉄のような一面の氷原。云々。
すべてがあまりに貧弱な気がする。大気がいくらそよいでも、静寂しか聞こえない。空もくすんで見える。生き生きとした音がない。色がない。動きがない。生命の息吹がないからだ。
私は気の進まない思いで、眼の前に広がるその世界へと飛び立つ。言いようのない不安と、絶望にも似た不公平感と、そして孤独とに襲われながら。
新しく開けた世界は、確かに閉鎖系ではないのだが、どこかそれに似た感覚を私に与える。360度の視界一面(一度、先の建物から離れると、もうそれは視野から消えてしまう)は、まったく同じ単一のもので、しかもそこには私しか存在しない。
こうした状況は、無限の空間に似ている。そして、無限空間に対する感覚は、閉鎖空間で感じる感覚に似ている。
To be continued...
画像は、カンディンスキー「青い空」。
ワシリー・カンディンスキー(Vassily Kandinsky, 1866-1944, Russian)
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夢の話:体制の恐怖(続)
こうしたシチュエーションでは、瞬間移動の能力はほとんど役に立たない。私の瞬間移動は、行きたい場所を一心に念じることで達成される。が、非人間性の体制を目の当たりにした上では、必ずそこから脱却できるはずだという確信を持てずにいるせいで、瞬間移動を試みたところで、ことごとく失敗するのだ。
反動国家のもとでの反動社会、それを構成する愚衆に向かって、馬鹿め! と罵ることができるうちは、事態はまだマシだ。つまり、罵倒する当の国家や社会の斟酌を当てにできるわけだ。だが同じ斟酌に甘えるのなら、罵倒よりも逃亡を選んでおくべきだ。
戦時下ではPD(=人格障害)の発症率が低減するというのは最近知ったことだが、実際(と言っても、夢のなかでの話だが)、ぎりぎりの状況のなかでは、我儘も戯言も、口にすることはもちろん考える余裕も一切ない。
愚衆どもによって、愚衆どもと無理心中させられる情けなさ! 無念さ! こうした状況に到ってからではもう遅い。
が、そんなものをかこつ暇などない。懇願も懺悔も意味をなさない。ただ生き延びることだけを考えなければならない。
生き延びても未来があるわけではないことは分かっている。だが、万策を尽くして生き延びなければならないのだ。……自分のためにではない。もっと大きな、何かのために。
こうした恐怖体制に対する必死の突破を、私は何度か試みたことがある。隠れていても必ず見つかる。網のような監視の眼を逃れるのは絶望的だ。
だが突破は、成功にも失敗にも終わらない。私は緊迫して張り詰めた神経に意識を失い、眼を醒ましてしまうから。
To be continued...
画像は、フュースリ「異端審問」。
ヨハン・ハインリヒ・フュースリ(John Henry Fuseli, 1741-1825, Swiss)
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夢の話:体制の恐怖
家屋敷やビルディングのような閉鎖系の空間を、さて運良く脱出できたとして、私の夢は好転するかと言えば、ほとんどの場合そうではない。
閉じた空間からようやく抜け出し、視界が開けたときに広がるのは、大抵はろくでもない世界だ。救いようのなさというものが、五感プラス第六感を鷲掴みにする。未来への希望の一切ない、精神的暗黒の世界。
私は背中から壁をスルーして外に出る。ようやくの外界! 全身を包むあの外気、あの外光! 安堵と歓喜に満ちて、私は振り返る。そして眼前に開ける光景に愕然とする。
例えば、おびただしい戦車と、機関銃を手にした迷彩服の兵士たちが整然と並んだ、茫漠とした荒野。あるいは、探照灯が夜空に徘徊する、厳戒令下の石畳の広場。あるいは、生命探知機を搭載したロボットが未登録の人間を探して巡回する、金属とガラス張りのビル街。あるいは、原始的な武具を手にした何万という人々が、蟻のように一面に群がる平原。云々。
私は慌てて後ずさり、身を隠す。ときには、あれだけの思いで脱出した建物のなかへ、再び背中から戻ることさえある。
奴らが、人影を見つけ次第撃てと命令されていて、実際に容赦なく撃ってくることが、私には分かっている。奴らにとって人間一人、虫けらも同然だ。
たった今眼にしたあの体制を突破することなど可能だろうか? 突破した先に、まともな世界はあるのだろうか?
To be continued...
画像は、ムンク「不安」。
エドヴァルド・ムンク(Edvard Munch, 1863年-1944, Norwegian)
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ギリシャ神話あれこれ:ヘラクレスのライオン狩り
すっかり逞しい若者に成長したヘラクレス。力を持て余していた彼は、キタイロン山麓に出没して家畜を荒らしまわっていた獅子を退治することに。
ヘラクレスは50日間、毎日獅子狩りに出かけては獅子を追いかけまわしていた。このとき彼は、彼を気に入ったテスピアイの王テスピオスに招かれて、王の館に世話になり、毎晩、獅子狩りから帰ると、王の娘と共寝した。う~む、さすが女好き。
が、わざわざ勘繰ったりしない単純なヘラクレス、自分の相手は同一の娘だと思っていたらしいのだが、彼が寝ていたのは実は50人の異なる娘たち。ヘラクレスの孫を欲しがった王が、自分の50人の娘たちを、代わる代わる彼のベッドに送り込んだわけ。……狩りから帰ると、酒でもかっくらって、娘の顔もろくに見ないで寝台に倒れ込み、出すもの出して、そのまま高鼾かいて朝まで爆睡してたんだろうな。
で、結果、王には思惑どおり50人の孫が産まれたという。
とにかくヘラクレスは、50日目に到ってようやく獅子を退治する。オリーブの木を根こそぎ引っこ抜いて棍棒を作り、この武器は彼にマッチしていたのだろう、これで獅子をボカン! と殴り殺したわけ。
ヘラクレスはその毛皮を剥ぎ、これも多分気に入ったのだろう、以来、牙を見せて口を開いた頭をそのまま兜にして、ライオンの毛皮を身に纏い、手には棍棒を携えるようになった。
キタイロン山の獅子を退治した帰途、ヘラクレスはボイオティア、オルコメノスの王エルギノスの使者たちに出会う。その頃テバイは、敗戦の結果、年100頭の牡牛をエルギノスに貢納していた。
ヘラクレスにばったり出会ったのが使者たちの運の尽き。ヘラクレスは、彼らの耳と鼻をそぎ落として、それを首にぶら下げさせ、代わりにこれを貢物に持ち帰れ! と言い放つ。……案外残酷で、手加減を知らない。
もちろんエルギノスは大いに激怒。テバイに攻め寄せる。が、アテナ神から武具を得たヘラクレスがテバイ軍を率いて迎え撃ち、エッヘン、勝利を収める(ちなみに、父王アンピトリュオンはこのとき戦死。南無~)。
輝かしい戦功。だが、英雄の人生はそう上手いこと行かない。
To be continued...
画像は、アンニーバレ・カラッチ「休息するヘラクレス」。
アンニーバレ・カラッチ(Annibale Carracci, 1560-1609, Italian)
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Bear's Paw -ギリシャ神話あれこれ-
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夢の話:閉鎖系の恐怖 その2(続々)
一度階段を見失うと、もはや天井や床をスルーして先へ進むしか道はなくなる。私の特殊能力など呪われてあれ! 超高層ビルは、一フロアに巨大な一部屋しかない、奇妙な空間と化す。
スルーするたびに、さっきとはまったく別の部屋が現われる。それはまるで、幾十、幾百の異次元を、次々とめまぐるしく通り抜けていく感覚。
床をスルーして階下に降りるよりも、天井をスルーして階上に昇るほうが怖ろしい。なぜなら、私は背中からしかスルーできないので、スルーした瞬間、その勢いで床から一気に天井近くまで浮かび、天井に張りつく形で部屋全体を見下ろすことになるのだが、その見下ろした部屋の情景が怖ろしいからだ。
仰向けに横たわり、床を背中からスルーして、下へ下へと降りていくときには、視界に広がる光景は、ただ、ニュアンスを伴う暗色の天井ばかり。背中全体に受ける、痛みに似た得体の知れない戦慄のほうが、耐えがたい。
だが、昇っていくときには、眼下に展開する光景ははっきりと眼に焼きつく。紙だらけのオフィスや、ダンボールの積み重なる倉庫、怪しげな実験器具ばかりのラボのような、雑然とした部屋々々の合間々々に、いかにも見てはならないような、ぞくりとする部屋が現われる……
おかっぱや三編みをした、もんぺ姿の女学生たちが、授業を受けている部屋。鉄の囲いのなかで青々と育った稲に、機械が自動放水している部屋。飼育された太古の虫たちが、おぞましく蠢いている部屋。ガラス張りの棚の上に、胎児の入った何百という試験管が並んでいる部屋。無造作に折り重なった、何千という死体が、まるでごみ屑のように焼却されている部屋。
私はうつぶせの格好で、上へ、また上へと昇り、眼下には常識離れした数々のシーンが、現われては遠のいて消え、また現われては遠のいて消えする。
これは怖ろしい感覚で、こうなるともう、私は自分の意志によらずに、はるか上まで延々と上昇し続ける。やがて私は天の、宇宙の存在を感じ始める。ああ、もうこんなに上まで来てしまったのだ。早く地上に戻らなければ……
私は上昇・下降をコントロールできなくなり、いつしか気を失う。気を失うと初めて、閉鎖系ではない空間へと瞬間移動できる。閉鎖系ではない空間とは大抵、現実の空間であって、つまり、私は眼を醒ます。
To be continued...
画像は、ムンク「宇宙での邂逅」。
エドヴァルド・ムンク(Edvard Munch, 1863年-1944, Norwegian)
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