第五の山

 
 コエーリョにハマっている相棒、私が「星の巡礼」を読んだ次の日にさっそく、「プレゼントだよ」と「第五の山」を持ってきた。私が別の本を読もうとすると、「もちろん、そんなのは自由だよ」と言うくせに、会うたびに「どこまで読んだ?」と尋ねてくる。「だって、読んだところまでしか、感想会ができないじゃない」と。う~む。
 で、面倒くさいのでさっさと読んでしまった。

 コエーリョ「第五の山」は、旧約聖書に出てくる預言者エリヤの、人生の若き日の試練と葛藤の物語。
 舞台は紀元前9世紀のフェニキア。子供の頃から守護天使と会話していたエリヤは、祭司からナビ(預言者)であることを告げられるが、両親の忠告に従い指物師として働く。が、あるとき主の声を聞き、バアル神への信仰を捨てるようアハブ王に警告。結果、王妃イゼベルに命を狙われ、祖国イスラエルを追われることに。
 エリヤは隣国レバノン(フェニキア)の、バアルの神々が住むという第五の山の麓の町ザレパテ(アクバル)に逃げ延び、一人のやもめ女に救われる。
 このとき、ザレパテはまさにアッシリアの軍隊によって侵略されようとしていた。

 旧約聖書を題材としているが、神への信仰がテーマではない。コエーリョが伝えんとするのは例によって、運命は神に与えられるものではなく、それぞれの人間が自ら切り開くものだ、という主張。
 高校生以降通読した聖書の記憶は、もうおぼろげなのだが、聖書では、預言者エリヤがザレパテのやもめ女に救われて、三年後、イスラエルに戻りバアル信仰と対決する。「第五の山」では、バアル信仰との対決は取り上げられておらず、聖書では空白の、ザレパテでの3年間が描かれている(「第二部」に当たる)。
 だから、物語はほとんどコエーリョの創作なのだろう。ザレパテでエリヤが経験する苦悩は、預言者としての苦悩と言うよりは、一個の人間としての苦悩。

 エリヤは神への忠実な僕であることをやめて、神に叛逆、挑戦する。そしてこう悟る。
 ……人間はその人生で不幸に見舞われることがある。そのとき神は人間に問う。「なぜお前はそんなにも短く苦しい一生にしがみつくのだ? お前の苦闘の意味は何なのだ?」
 この問いに答えようとしない臆病な者は、運命として諦めてしまう。一方、勇敢な者は、公正ではない神の存在の意味を求め、自分の運命に挑戦する。このとき天から火が降りてくる。真の可能性を知らせるために。
 天では神が満面の笑みを浮かべている。なぜなら神が望んでいるのは、一人々々の人間が、自分の人生の責任を自らの手に握ることなのだから。神は人間に最高の贈り物、自らの行動を選択し決定する能力、を与えているのだ。……

 神の全能についての、レビ人の主張が面白かった。
 ……もし神が、我々の呼ぶ善き事しか行なわないなら、神の行動を監視、判断している、神よりももっと強力な存在があることになり、神は全能ではないことになる。
 なるほどー。
 
 画像は、F.M.ブラウン「やもめ女の息子を復活させるエリヤ」。
  フォード・マドックス・ブラウン(Ford Madox Brown, 1821-1893, British)

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