11分間(続)

 
 学生のとき、両性論を勉強した際に、この分野での社会科学の到達水準に唖然としたことがある。
 当時(現時点については知らない)、社会科学は、性をジェンダー(=社会的に規定された性)と捉え、両性論を女性の側の問題と捉え、両性間の愛情をイデオロギーと捉えていた。これ、全部間違い。多少とも積極的な、興味深い論点だと思えたのは、女性のいわゆるフェイク(オーガズムに達したフリ)についての著書(タイトルは忘れた)、たった一冊だけだった。社会科学の、何というセンスのなさ。

 人間の性交渉は単なる生殖の手段ではなく、それ自体自己目的となり得る点、さらに愛情という精神的要素が主要なものとして介在する点で、独自のものであり、動物のそれとは異なる、というのは、よく耳にする。
 で、男女同権の立場から、「愛情」や「ベッドの上での対等」を強調するのも、まあ耳にする。

 が、これは私の勝手な考えなのだが、認識はどうあれ身体上の性差は存在するのだし、セックスという行為は生物学的に見て、男性の挿入で始まり男性の射精で終わるという点で、そもそも男性本位なのであって、このことを抜きに「愛情」や「ベッドの上での対等」だけを強調することはできないと思う。単純にこの意味で、行為における女性の側の快楽(を目指すベクトル)の有無が、人間特有のセックスの、一つの重要なメルクマールとなるように思う。
 もちろんそのためには、相互の信頼や愛情表現、対等な関係、リプロダクティブ・ライツなど、両性論の主要な問題がすべて含まれてくるのだが。
 
 で、「11分間」に戻ると、マリーアとラルフの関係を通じて、コエーリョは一つの主張にたどり着く。
 ……愛情は所有ではなく、自由とともに存在する。だが快楽は? 人間は未だに、セックスは射精のことだと思っている。男が女に、どうすれば相手に快楽を与えられるかを尋ねる勇気を持たないために。また、女が男に、どうすれば自分が快楽を得られるかを告げる勇気を持たないために。

 あれ? これって学生の頃の私の論点と一致するじゃないの。なるほど、コエーリョみたいな男性とだったら、一度お手合わせしてみたいかも。なんちゃって、嘘!
 とにかく、両性論もこういう本を読んで勉強すればいいと思う。フロイトも取り上げられてるし。 

 ところでこの物語、途中、SMが出てきて、マリーアが痛みの快楽に陶酔するシーンがある。私はこの個所で気持ち悪くなっちゃって、よっぽど、もう読むのをやめようかと思った。
 読了後、相棒にそう言うと、
「そこでやめちゃったら、人間の性には暴力を好む一面があって、そこだけを歪めて発展させたら、ああした形の性表現が出てくるという現実も、人間はそれをモメントに落として、より豊かな性を追求していくという展望も、知らないままで終わっちゃうでしょーが!」と叱られた。

 あー、コエーリョがわざわざSMを入れたのは、そういう理由だったのね。

 画像は、ドガ「売春宿」。
  エドガー・ドガ(Edgar Degas, 1834-1917, French)

     Previous
     Related Entries :
       女性論について
       性の商品化について
       私物化感情について
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )