私物化感情と愛情

 
 対象を「我がものとする」と言うとき、二つの意味がある。

 例えば、ある人がある絵を「我がものとしたい」と思ったとする。その人が、しかるべく代価を払って、持ち主からその絵を入手すれば、その人はそれを「我がものとした」ことになる。
 ところでその人が、その絵のために持ち主のところに通いつめて、何十回、何百回と鑑賞し、その結果、色彩の機微、フォルムの細微にわたって、その絵を脳裏に再現できるようになれば、やはり、その人はその絵を「我がものとした」ことになるだろう。この場合、他の人が同様にその絵を「我がものとする」ことを、何ら妨げるものではない。

 社会科学では、前者を「所有」、後者を「領有」と呼ぶ。「領有」には「所有」のような排他性はない。

 さて、対象を「我がものとしたい」と思っても、その対象の性質上、それを排他的に「我がものとする」ことが不可能なものがある。科学や芸術など、人間とその知に関わるものは、大抵がそう。
 で、本来「領有」しかできないものを「所有」することを、「私物化」と呼ぶ。
 
 この私物化のうち最たるものは、人間そのものを私物化することだ。

 人は誰もが、その人自身の人権、人格、認識や感情、理性や感性などを持っている。だが、そうしたものを考慮せず、対他関係において、自分の意志や意見、気分・感情を、一方的に押し付けたり、押し通したりする人は多い。そういう人は、つまり相手を私物化しようとしているわけ。
  
 殺人や強姦のように、私物化行為が極端に走れば、多くの人はそれを非難する。が、そうした犯罪行為に到らない私物化行為に対しては、往々にして容認する風潮があるように思う。こと、私物化感情を「愛情」と呼ぶときに、それが多い。
 私は、私物化感情こそが、人間の最も醜い感情だと思う。その実が私物化感情でしかない「愛情」は、人間性とは正反対のベクトルにある、醜悪な、嘔吐すべき、おぞましい感情だと思う。

 To be continued...

 画像は、シュヴァーベ「内なる静寂」。
  カルロス・シュヴァーベ(Carlos Schwabe, 1877-1926, Swiss)

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