ちょいスピでセラピー的なKizukiの日々

色んな世の中の出来事、セラピーなどから気付きを得て、ありのままの自分に還ることを目指して生きてます。

少年時代の妄想

2018-11-18 09:01:28 | 本と雑誌
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本を出版しました!

  「オーラソーマの奇跡と私の気付きの日々」
    ~潜在意識を”色”として客観視することで劇的に人生が変わる~


オーラソーマというカラーセラピーに出会って10年。
オーラソーマに取り組むことによって自己成長してきた記録です。
スピリチュアルな世界に足を踏み込むと誰もが気になる
「自己受容」とか「ありのまま」ということなどについての
理解について述べた本。

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私には、この1年で自分が読んだ本のなかで1番面白かったと思うものを交換しあうことを恒例にしている友人がいて、その友人が最近くれたのがこちら。
「僕が殺した人と僕を殺した人」 著:東山彰良 文芸春秋刊
友人は、
「いろんな賞もとっているメジャーな作品だから、えっちゃんももう読んだかもしれないけれど・・」
と控えめに差し出したのだけれど、なんの、わたしゃ、最近は潜在意識に関する本ばかり読んでいて小説を全然読んでいませんでしたので、幸いにも未読の作品でした。



ゆっくりと楽しもうと思っていたのに、あまりにも面白くて1日で読了してしまいました。
この読了感は、ユン・チアンの「ワイルドスワン」を読んだときに似ている、と思いました。
「ワイルドスワン」は、親子3代にわたって中国共産党支配下を生きぬいた女性の話で、ずいぶん昔の小説です。
でも、いまだにこの本にまさるほどの本に出会ったことがない、と思っていました。
でも、この「僕が殺した人と僕を殺した人」はなかなかいい線いってるな~
こちらは台湾で貧しい少年期を過ごした子どもたちの話で、ちょっと「スタンド・バイ・ミー」的な部分もあります。
ずっとこちらの方が深刻で重いけれど。
タイトルでおわかりのように多少推理小説的な側面もありますが、まぁそんなことよりみずみずしい少年の感性の話だと思って読んだ方が楽しめます。
“みずみずしい”って言葉を使うとどうしても、「アルプスの少女ハイジ」的な人里離れた自然あふれる環境のなかで友情をはぐくんでいった少年少女的なものを想像されるかと思い、この表現を使うことをためらいましたが、ほかにふさわしい表現が思いつかなかったもので。
こちらはハイジと違って男の子たちが主人公ということもあり、死ぬほどの喧嘩ばかりに明け暮れ、生きて行くにも必死という場末の町中での話です。



今日はこの本のおおかたのあらすじをご理解いただいたうえでどうのこうの、と語りたいわけではありません。
ひたすら少年の頃の感性ってこういうものだったなぁ、と自分に照らし合わせて懐かしい想いをしたときのことを書きたいと思いました。
単純な言い回しになってしまいますが、少年の頃って“憧れ”があったなぁ、って。
そしてその“憧れ”は“憧れ”のまま、存在しつづけたよなぁ、ってこと。
現代はSNSを駆使して“憧れ”の存在をすぐに“現実”の場にひきずりおろしてしまえるので、あまりこの少年たちが感じたような“憧れ”の世界観を抱くことはないのかもしれません。



たとえば、こんなシーンがあります。
仲良し3人組の少年たちはあるとき、ストリートダンスにハマり、自分たちでラジカセを路上に持ち出しては自己流でダンスの腕を磨きます。
以下、抜粋します。
『ある晩、ダンスの練習が一段落したところでテンプテーションズのテープをかけた。たっぷり汗をかいた身体に、夜風と「マイ・ガール」の甘いコーラスが心地よかった。ぼんやり曲を聴いていたあとで、おもむろにダーダーが口を開いた。
「いい曲だね」
「うん」ぼくは応じた。「摩城音楽(モータウン・サウンド)というらしい」
「モータウン?」
「アメリカのデトロイトのことをそう呼ぶんだ。デトロイトでは車をつくってる。モータータウンを縮めてモータウンってわけさ」
「ターしか縮まってないじゃん」
「バンズのファイヤーバードもそこでつくってるんだ」
「デトロイトか」ガジュマルの葉っぱをもてあそびながら、ダーダーが言った。「きっとすげえところなんだろうな」』



このシーンを読んだとき、私は自分の中学生の時のあるエピソードを思い出しました。
中学になってバス通学することになった私は、乗ることのできる路線のなかに「からくり農協行き」というものがあるのがいつも気になっていました。
実際には「唐栗」と書きます。
でも“からくり”と言われると、どうしても
「その仕掛けはどうなっているんだ?」
というときの「からくり」を想像してしまいますよね。
私は勝手に「からくり農協」という場所を想像して楽しんでいました。
いや、想像というより妄想の域ですね。
「からくり農協」というところはきっと、ほかの農協とは違っていて、なぜこんなところにいきなり農協があるんだ? というような場所にひっそり佇んでいるに違いない。
そして恐る恐る入って行くと、そこにはなにやら異形の人たちばかりが働いており、ごく普通の私を見てかえって驚き、
「どうして、ここに“普通”の子どもがやってきてしまったのだ?」
という顔をする。
そこで私は、
「たまたま迷い込んでしまって・・」
と言うと、ようやくほおを緩め、ニッコリし、そのうちの1人が
「どれ、じゃあ御嬢さん、アンタを案内してあげようかね。ここにやってきた“普通”の人間はあんたで3人目じゃよ」
なぁんてことを言い、そのバネ仕掛けの滑車がいっぱい張り巡らされている迷宮のような建物のなかを案内してくれる。
そこは・・・!
-------というようなことを勝手に妄想して楽しんでいたのでした。



あるとき、その妄想がどうしても抑えきれなくなった私は、1人の友人を誘い、
「ねぇ、今日、学校の帰りに、『からくりのうきょう』行きのバスの最終バス停まで行ってみない? どういうところか興味あるでしょう? からくりだよ、からくり」
とそそのかし、さほど興味がある様子にも見えなかったおとなしい友人の腕を無理やり引きずり、「からくりのうきょう」行のバスに乗ったのでした。
バスの中で友人と私は無言でした。
私は期待にワクワクしていました。
ついに最終バス停まで着いたとき、降りる人間はわたしとその友人のみでした。
バスの運転手が怪訝な顔をして、私たちを眺めていました。
制服を着た中学生が2人、こんなところに何の用事があるのだろう? という顔つきでした。
もう、いつもバスに乗せるメンツはわかっているのでしょう。
私たちがこんなところまでいつも乗る人間じゃないことはわかっているから、どうして? という感じだったのでしょうね。
私たちが少しでも「ここはどこ? 私は誰?」的にキョロキョロしようものなら、すぐさま、
「どうしたんだね? 降りる停留所を間違えたんじゃないかい? どこへ行くの?」
と聞いてやろうと手ぐすねひいて待っている感じでした。
そんな問いに、まさか「からくり」というネーミングだけに惹かれて、そこがどんなところか確かめたかったのだ、なんて子どもっぽいことを打ち明けられるわけがありません。
私は「当然です。最初からここで降りる予定でしたよ。わかってます」というきりっとした顔をつくり、さっさとバスを降りました。



そこはなぁ~んにもないところでした。
一面に田んぼがあるだけでした。
バスの停留所だけがぽつねんと壊れそうな小屋のようにしつらえられていました。
かつては「農協」があった場所なので、そういうネーミングになっていたのでしょうか。
なんの建物もありませんでした。
ひゅーひゅーと風が吹きすさぶ田んぼの真ん中に所在なげに降り立った私たちはどうしたらいいのかわかりませんでした。
振り返ると、そこにはさきほどの運転手がまだ事件性でもないか、という目で私たちを追っています。
「からくりのうきょう」が終点なので、そこで折り返して、また同じバスが行先を変えて反対方向へ行くバスになるようです。
それに乗ったりしたら、さすがに恥だ。
なぜか私はそう思いました。
それで心もとなさそうにしている友人に、
「少し歩こう」
と言いました。
友人もこっくりと頷いて、私たちはただとぼとぼと田んぼのあぜ道を歩きはじめました。
友人は決して私と並んで歩こうとはしませんでした。
私の後ろを2mほど離れてついてきました。
友人の心の中は手に取るようにわかりました。
「なによ、こんなところまで私を連れてきて・・!」
「なんにもない場所ってだけのことじゃないの」
「どうするつもりなの・・? これから」
「でも仕方がないか・・ イヤだったら私もちゃんと断ればよかったんだから。いくらえっちゃんが強力に誘ってきたからって、自分の意志で行くことにしたんだし、多少は面白そう、って私も思ったんだし」
つまり、友人は、ここで怒りだそうか、明るく振る舞おうか、ギリギリのところで逡巡していたのだと思います。
私は私で、自分からさも楽しいことを思いついたよ!という感じで、友人のことを誘ったので、責任を感じていました。
どうこれを決着つけたらいいのかわからず、ただ黙々と歩きました。
途中で、
「あ、蝶々だよ!」とか、
「この花ってなんだろ? 珍しいよね」
ぐらいの声は掛け合ったと思います。
要するに、私たちは、この小旅行がそれなりに楽しいものだったね、という方向へ向けようとする努力をすることに決めたのでした。



その後、足が棒になるほど歩き続けて、ようやく学校の近くのバス停留所まで来て、見慣れた風景にほっとしたんだと思います。
「・・・バスに乗って家に帰ろうっか」
と私が言い、友人ももうこれ以上口をきけない、というほど疲れ切った様子で、
「うん」とだけ言い、
来たバスに乗り込み、また無言のままそれぞれの停留所で降りたのだった、と思います。
次の日はまたいつもの日常がやってきました。
何事もなかったかのようにいつもの日常でした。
っていうか、あの日だって日常でした。
「からくり」なんて何もなかった。
魔境もなかったし、異形の人たちもいなかった。
ただの野原に行き、そして帰ってきた、というだけのことです。
でも、このことは私の心に強い印象を残しました。
けれど、この小説を読むまではまったく思い返すこともなく、封印してきたのですね。



この小説を読んで、少年時代に抱く身勝手な妄想というものの末期は、たいていこんなもんさ、という失望を味わいながら私たちは大人になっていくんだな、ということを思いました。
それをちょっぴりほろ苦い味とともに思い出したのでした。
この小説のなかの主人公たちも、台湾からデトロイトなんてすぐに行けるところではないし、当時はすぐに
「じゃ、デトロイトってどんなところか調べてみようぜ」
とすぐにスマホをいじり、
「デトロイト 画像」
とでもインプットして検索をかければ、たちどころに現在のデトロイトがどんなものかわかるという時代でもなかったでしょうから、“憧れ”を“憧れ”のまま封印できる苦い喜びに浸ることもできたでしょう。
けれど、もしすぐに知ることができたり、すぐに行くことができるようなところで行ってみたとしたら、彼らは相当失望したことでしょうね。
当時でもすでにデトロイトは失業者の町と化していたでしょうから。
モータウンサウンドが街じゅうに鳴り響き、いきいきとストリートダンスを踊る若者たちがたむろしているような場所ではなかったでしょうから。



それにしても、上質な小説が自らの潜在意識の蓋を開けてくれる、ということは往々にしてあり得ることだと思います。
私はこの小説を読まなければ、「からくりのうきょう」のことなんて思いだしもしなかったことでしょう。
今日に至るまであの日のことが自分の感性を豊かに育てる一コマとなりえたのだ、とも思ってもいないし。
でも、ほんのちょっとつつけば、思い出す程度にはこの中学1年生の子どもだった私にとってはこのことは冒険だったんだな、そして苦さを味わったことによって、1つ大人になっていったんだな、と思いました。