ちょいスピでセラピー的なKizukiの日々

色んな世の中の出来事、セラピーなどから気付きを得て、ありのままの自分に還ることを目指して生きてます。

「グレイテストショーマン」を観て

2018-05-08 09:01:47 | 映画

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new!
ワイス博士のワークショップ シェア会
  岐阜 5月19日(土) ヒーリングサロン「些々羅 」
      「瞑想の会」にて
  10:30~12:00
   定員4名 参加費 1coin(\500)
   こちらは満席となりました。ありがとうございます。

 名古屋 6月16日(土) 名駅近くのセミナールーム
            ※お問い合わせいただいた方に詳しい場所をお知らせします。
     時間 13:00~15:00
            終了後、近くのカフェでお茶会あり(自費参加)

定員6名 参加費  ¥1500
   残席2名      ※岐阜の「瞑想の会」とは少々内容が変わります。
             岐阜では瞑想をすることをメインとした場でお伝えするので、
             シェアとしてはこちらの方が詳しくお伝えします。
  終了後、お茶会行います。
  参加ご希望の方はその旨もお伝えください。

  とにかくシェアしたい!という私の気持ちが強烈なので、参加費は格安です。是非、ご参加を!

お問い合わせ・お申込みは、
  chakra@aura-soma.name   まで。

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*他人が敷いたレールではなく、自分自身で選んだ道を歩きだせるようになります。

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連休の1日、「グレイテスト・ショーマン」を観に行きました。
私の周りで「見てよかった!」と言っている人が複数人いらっしゃったので、ふぅん、そうなのか、そんなに面白い映画なのか、では私も観てみたいな、と思っていた映画でした。
なんの予備知識もなく観に行った映画でしたので、あらすじさえ知りませんでした。
まず、ミュージカル映画ということさえ知らなかった。
ミュージカルというのは基本、わたし、あんまり好きじゃないんです。
歌を介在させることによって本来ストーリーで描くべきものが浅くなる、っていうイメージがあって。
でも、この「グレイテスト・ショーマン」でも主役だったヒュー・ジャックマンが演じた「レ・ミゼラブル」は理屈抜きに面白かった。
だからそこで偏見は失くした、と思っていたんですが・・・
この映画では、「良い映画だったか」と言われると「YES」、1度観た方がいいよ、と人にも勧められるけれども、ミュージカルであるがゆえに登場人物たちの機微を描くのが浅くなっている、というのはやはり否めないな、という気はしました。



内容はこんな感じです。
「レ・ミゼラブル」でも華麗な歌声を披露したヒュー・ジャックマンの主演で、「地上でもっとも偉大なショーマン」と呼ばれた19世紀アメリカの実在の興行師P・T・バーナムの半生を描いたミュージカル。劇中で歌われるミュージカルナンバーを、「ラ・ラ・ランド」も手がけたベンジ・パセック&ジャスティン・ポールが担当した。貧しい家に生まれ育ち、幼なじみの名家の令嬢チャリティと結婚したフィニアス。妻子を幸せにするため努力と挑戦を重ねるフィニアスはやがて、さまざまな個性をもちながらも日陰に生きてきた人々を集めた誰も見たことがないショーを作り上げ、大きな成功をつかむ。しかし、そんな彼の進む先には大きな波乱が待ち受けていた。主人公P・T・バーナムことフィニアス・テイラー・バーナムをジャックマンが演じ、バーナムのビジネスパートナーとなるフィリップ・カーライル役を「ハイスクール・ミュージカル」「ヘアスプレー」のザック・エフロン、バーナムの妻チャリティを「マンチェスター・バイ・ザ・シー」のミシェル・ウィリアムズが演じる。
      ―――「映画.com」より―――



私が知らなかったこととしては、ミュージカル映画だった、ということやざっとしたあらすじのほかに、この映画が実在の人物をモデルにしたものだ、ということも、です。
P.Tバーナムという人物は、実在の人物ですが、この映画は彼の人生を忠実に再現したものではなく、かなり脚色がほどこされており、あくまでもエンターテインメントとしてのミュージカルだ、ということのようではありました。
実際のP.Tバーナムという人物は、かなりペテン師的な要素もあり、自分が一儲けして成功したいがためだけにフリークスを利用した、という面もあったようです。
でも、自分の周りにいる身内たちにはとても手厚い人物で、実際に自分のサーカスに出演しているフリークスたちに対する給料も破格なもので、彼らは一般的な企業に勤めるよりよほど多くの収入をバーナムから得ていたようです。
あぁ、こういう人っているよなぁ、と判る気がしました。
日本でいうと昔の政治家、田中角栄氏みたいな感じでしょうか。
偏見がないわけでなく、奉仕精神や社会貢献願望が高いわけでもなく、ただ貧しい自分から抜け出すために「お金を得ること=成功」という単純な図式で突っ走ったのだけれど、そこに冷淡さしかなかったかというとそうではなく、自分のために立ち働いてくれる人々にはちゃんと応えた、ということですね。



映画ではそこ、ビミョーな感じで描かれていますね。
確かにバーナムは貧しい境遇からなんとか妻子を幸せにするためにはもっとお金持ちになりたい、という単純な動機を持っていますが、それでフリークスたちを利用しただけで最初から彼らに対する同じ人間としての尊敬の念がなかったかどうかというのはよくわからない、グレーゾーン的に描かれていた、と思います。
ただし、私は先ほどくしくも「フリークス」という表現を使いましたが、映画でバーナム自身が彼らのことを「フリークス」とは言っていません。
最初に小屋を立ち上げるために多くの演者を集めるために町に貼ったポスターにも「ユニークパーソン募集」となっていました。
これだと単なる「個性的な人、おいで!」となりますが、実際のバーナムが心から生まれつきの障害を持った人のことを「個性」だと認識していたかどうかはわかりません。



ただ、私はこの映画を観て、自分自身が、
“自分とはあまりにも境遇が違う人生を送ってきた人”
に対して、
「愛を持って接すれば、そんなこと関係ないやい!」
と言い切れるのか、と言うと自信がなくなりました。
映画がそこを深く掘り下げてあったわけではないけれども。



例えば、主人公のバーナムは幼馴じみでお金持ちのお嬢様だったチャリティと結婚でき、そして2人の娘をもうけて幸せな日々を送るのですが、この2人の貧富の差、従って過ごしてきた幼少期というのはあまりにも差があります。
そこはミュージカルらしく駆け抜けるように描かれてはいますが、ざっと言うとこんなことです。
バーナムの方は幼くして稼ぎ頭の唯一の親である父が亡くなってしまったがゆえに、ストリートチルドレンのような生活です。
店先のパンを盗んではつかまったり、チャリティに手紙を出したくても切手代さえないので、チャリティの家の近くまでまさに行っている郵便配達員のバッグに直接手紙を投げ込むという具合です。
それに対してチャリティは大きなお屋敷に住むお嬢様で、いつも小奇麗なドレスを着て、どこへいくにも御者がついた馬車、マナーを教えてくれる個人の先生がついている、という具合です。
こんな2人が惹かれあい、チャリティは当然ながら、親が猛反対のなかで屋敷を飛び出し、バーナムについていくことを決意するわけですね。



次のシーンではすでに結婚して娘2人をもうけたチャリティが住んでいるアパートメントの屋上でたくさん洗濯ものを干しているところでした。
そこでふと私は思ったんです。
映画のチャリティはそんなことは何の苦も無くこなしているようでしたが、沢山の洗濯ものを抱えてフロアを何階も登り、シーツに皺がないように干し、また取り入れる、というのは大変なことだろうなぁ、と思いました。
チャリテイはそんなことはやったこともないはずですしね。
そこでチャリテイがもし、バーナムがくれる毎月の生活費のなかで自分がうまくコントロールできるのであれば、洗濯ものはある程度クリーニング屋に出したってかまわない、と判断し、そうしたとします。
それを知ったバーナムが激怒したとします。
バーナムの人生において、洗濯ものを外注するなんてことは考えられないからです。
「なんて贅沢なことをするんだ、お前は! ありえない」
とチャリティを非難する。
けれど、チャリティにしてみればずっと自分の人生では洗濯ものは外注するのが当たり前だし、今だって私は自分の境遇が変わったことは十分に理解して、全体の月の生活費のなかでやりくりできるのであれば、大物についてはクリーニング屋に出すことがどうしていけないのか、そんなにも非難されなくてはいけないことなのかわけがわからない。
だからバーナムに叱られても反発を感じるだけ。
「何を家事に口だししてくるの? ちゃんとやりくりしてるんだから何が悪いのよ?」
と思うだけでしょう。
思うだけのみならず、それはゆくゆくバーナムの人格までをも疑うことに繋がって行く。
「貧しいことには耐えられると思ったけれど、あの人がそんなみみっちいことを言う男なんて、思っても見なかったわ。
あんなレベルのことに目くじらをたてる男なんてこの先だって見込みはない。たかがしれているわ。第一尊敬できない。」
と思ったとして、誰がチャリティを責められることでしょう。



ふと屋上で洗濯ものを干しているシーンがあったのでそう思っただけですが、こんな価値観の違いというのは境遇があまりにも違う2人であれば日々一緒に暮らしていれば、山ほど感じることでしょう。
お嬢様育ちとほぼ乞食同然の孤児とでは。
「お金があるか、ないか」
に耐えられるかどうか、ではない。
好きになった異性に、「この人はこんな自分にはとうてい及びもつかなかった違う価値観の持ち主なのだ!」というものがあることに耐えられない。
それは十分に考えられることだ、と思ったのでした。
(映画ではそうはならないけれども)



ユニークパーソンたちについてもそうです。
全身毛におおわれた獣のような男、身長2メートルもあるような大男、いろんな人がバーナムに雇われるのですが、その中に女性でありながら、男のようにふさふさとしたあごひげ、口ひげが生えてしまう人がいます。
それがキアラ・セトル演じるレディ・ルッツですが、彼女がバーナムにこう言うシーンがあります。
「自分の母親にさえ、自分の存在を隠されて生きてきた。そんな私を救ってくれてありがとう」
と。
どういう“隠され方”をしたのかはわかりませんが、あまりにも人と違う容姿で生まれついたがゆえに自分の親からも「この子を世間から隠したい」と思って育てられてきた価値観の人と、そんなことは考えたこともない人間がもし一時の燃え上がった情熱だけで結婚したとしたら、うまく行くんでしょうか?
そしてそれもちゃ~んと事前に十分に自分の中で消化したうえで「死ぬまで愛してるよ」と言えるんでしょうか。
それを全部腹に入れて「私には偏見がない」と言う自信は私にはないな・・・と思ってしまいました。



こんなシーンがあります。
それまで上流社会ばかりを相手にしてきた舞台監督をバーナムが巻き込み、自分と一緒に仕事をするようにハンティングします。
そのカーライルという監督は、自分の両親に、
「恥知らず!」
と言われます。
古来の童話などでもよくあるセリフですよね。
勧善懲悪的な物語に接して来ても、そのセリフに対して深入れしてかんがえてみることをしませんでした。
「お高くとまった、何も深く考えない人たちね!」
ぐらいな感じで。
でも本当に深く考えていないのは私の方だったかもしれません。
上流社会の人たちというのは、嫌でも目立ってしまうところがあります。
だから自分を律して、常に後ろ指さされないようにして言動を慎まなくては、と思っているところがあります。
そんな彼らにしてみれば、わざわざ“目立ってしまう”ことに手を染める人たちが「わけがわからない」だけではないか、と思いました。
見世物小屋のようなショーをやって、それは世間ではどうやら評判がいいようだが、見た目が普通ではない人を使っているショーのようだ、それで評判をとっているのだとしたら、どうしてわざわざそんなことで自分を売り込みたいんだ!? 私たちはずっと悪目立ちしないように生きてきたというのに! という気持ちから、
「恥知らず!」
という一言にその歴史的な気持ちが集約されているのではないか、と思ったら、決して彼らを責められないなぁ、と思ってしまったのでした。
私がもしそういうセレブに生まれついたとしたら、やはりそう思ったかもしれない、と思うから。



こう考えると、「差別」とか「偏見」というのは本当に根深いものだ、と考えさせられたのでした。