「表現アートセラピー」専修講座で私に起きた新たな気付きについて書き綴りながら、それがちょっと続いておりますが、今日が最後かな。
これも面白いワークだったのでご紹介します。
長く大きな紙が用意されました。
自分自身の肉体の頭からつま先までがすっぽりとその中におさまるよりさらに大きい紙です。
そして、その上にねっころがり、ほかの人に、自分の体のアウトラインをなぞってもらいます。
実際になぞってもらって出来上がった自分のアウトラインを見て、まぁ、服の上からだ、ということもありますが、意外にでっかいものだなぁ、と思いました。
この肉体を普段維持するために色んなものを食べたり、あるいはこの肉体を動かすために脳から指令が出たりしているのか、それは大変なことだなぁ、と思いました。
実際、写真などで自分を客観的に眺めることはあっても、人生において等身大の自分を眺める、という経験はそうそうに出来ることではありません。
これ1つをとったところが実に貴重な体験が出来た、と思いました。
さて、それから上から下まで身体を“ボディスキャン”していきました。
その自分のアウトラインが書かれた紙の上にねっころがり、軽く目を閉じます。
エリさんが、頭から順番にスキャンしていくための誘導瞑想のキーワードを囁きます。
それにしたがって、頭はどうだ、耳はどうだ、右と左で違う感覚はないか、鼻の状態はどうだ、というように病院でCTスキャンをしてもらうのと同じように1つ1つの器官を自分でスキャンしていったのです。
「それをよぉく覚えておいて、あとでその紙の上に、自分が感じたことのイメージを描くのよ。私がおなか、とつぶやいたときにそこでパッと出てきたものを描いてもかまいません。」とエリさんは言いました。
まず頭をスキャンしたとき、私の目の前にパッと差し出されたイメージは、「冬山」でした。
雪をかぶったそれはそれは寒そうな雪山。
でも、頭って涼しいほうがいいっていいますよね。
猫も、眠いときには耳や頭がぼやっと温かい。けれど遊びたくて活動的になっているときは耳や頭がひんやりしています。
(今、私は感覚的にさえているのかな。)とそんなことを思うと、冬山がビジュアルとして出てきたことに非常に満足を感じている自分がいました。
それから耳と鼻のときには、それが器官としてつながって、糸巻き車になっているのを感じました。
両耳から入ってきたものを鼻という真ん中の器官で、一生懸命糸のように巻き取っていました。
そして口では、なぜか、野球のミットが現れました。
喉、心臓、と進み、「肺」と言われたとき、私の肺は、文字通り「灰色」で、とてもくすんでいました。
ぎえっ、ここ、かなり病んでるぞ~と思いました。
ひょっとすると私は喉や気管支が弱いと思っていたけれど、たまたま症状がそこに出るだけであって、本当に一番弱いのは肺なのかも、と思いました。
風邪を引くのもたいてい喉をやられて、ということが多いし、ターコイズ好きであるにもかかわらず、ターコイズを塗るとなぜか肌荒れ起こしちゃうし、でてっきり喉と気管支そのものが弱いと思い込んでいた。
でも、自分は自分の体に対して嘘はつかないよね~
そして胃と腸という消化器官は、私にとっては重要な位置づけでないのか、どれだけイメージを待っても何も現れなかったり、ただの袋だったりしました。
消化器官だから、実際にはそこに“動き”や“流れ”があるはずです。
でも、ただの袋だからそれはそこにただじっと「あるだけ」で、何も取り入れないし、送り出しもしない。
私にとってはそんな器官でした。
おかしいな~
あれだけ食べることが好きなのに。
つまり私は味覚としての”口”や”舌”の感覚にこだわっているだけで、胃や腸に関しては何らこだわりをもっていないのかもしれない。
だから逆に言えばいたわってもいないんだろうな。
毎日「食べ過ぎた~」と言ってるくらいだから・・・
もう少し胃や腸の身になっていたわってあげなくちゃ。
そして、なぜか驚くべきことに、両足をイメージしたときには、「ホットドッグ」が出てきました。
とってもおいしそうなホットドッグ。
これは、ファストフードや添加物ばりばりのジャンクフードの象徴として出てきたわけではない、ということだけはわかりました。
でも、どうしてホットドッグなのか皆目見当がつかない。
ひょっとするとエネルギーの源である食べ物は口から取り入れるけれど、それが一番欲しがっている大切な器官は下半身だからね、ということかもしれない、とか、生命の樹でもマルクトに関連する「生きて行く」というエネルギーにはすさまじいものがある、ということだから、サバイバルの象徴として食べ物が現れたのかもしれない、とか思いました。
ま、いいや。
下の写真が私の「ボディスキャン」した、「ボディコラージュ」の絵です。
隣に立ってらっしゃるのがファシリテーターのエリさんです。
後になって、そういうことだったのか~!とわかるときが来るかもしれない。
このボディスキャンについての驚きは、「話す」という自分のほうが能動的になる器官だと思っていた「口」が、物事を受け止める象徴であるかのような野球のミットとなって現れたことでした。
耳と鼻も入ってきたものを巻き取るものとしての糸巻き車だったし。
これは、ひょっとすると“思考”は、私のことを「表現者だ。」「発信者だ。」と思っているけれど、“身体”としての私は、もっともっと周りの人たちの言うことを聞いて、それを受け止めたがっているのかもしれない。
それをもっとしないとバランスがとれないよ~と訴えかけているのかもしれない。
すべてを手放すためには、そもそも手放すものを持っていることが必要。
そしてその手放していく荷物を持つために肉体が必要。
意識は五次元の世界に存在することは出来るけれど、肉体は存在することができない。
肉体だけが今ここにいる、という存在のあかし。
そこにいるしかない。
その肉体と意識の葛藤のなかに生きる、ということこそが「生きる」というゲーム。
だから私たちはいつまで経っても、その葛藤から完全に抜け出られる、ということはないでしょう。
どれだけ修行を積んで悟った高僧であっても、その人なりの葛藤が必ずあるはず。
そう思えば、凡人の私がいつも迷いのなかにいたり、葛藤のなかにいたりするのは当たり前だ、と気が楽になる。
そして、その葛藤を味わうための手段として、思考からアプローチしてみたり、時には肉体からの声を聞くようにしてみたりするのは非常に面白いことだと思いました。
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