ない。まさか。いつもの棚にない。私は魚屋で生きたヒラメを手に入れた。今夜、ヒラメの型押しを作ろうと決めた。さっそく材料を買うことにして住む町から電車で20分の市の駅構内にあるスーパーに寄ったのである。店員に尋ねた。「香菜ないんですか?」「あぁパクチーですか。最近並べるとすぐ売り切れてしまうんですよ。市場でも取り合いです」
また始まったのか。日本人の一過性のブーム。ありがた迷惑である。パクチーが普及するのはかまわない。ラジオで聴いたのだが、パクチーの生産は静岡県が多いが、最近では千葉県の農家がパクチー生産に転換して参入してきているそうだ。首都圏でのパクチー消費量が増え、パクチー専門レストランまであるという。パクチー好きな女性を“パク女”と呼ぶそうな。私から見れば、パターン化した仕掛けられた社会現象でしかない。数年前まで香菜は行きつけのスーパーで普通に買えた。
ヒラメの型押しには香菜はなくてはならない。香菜なしで仕込みはできない。私はペーパー料理人である。レシピに書いてある通りにしか調理できない。特に材料はひとつとして欠ければ、作る気が失せる。レシピに書いてある順番、量、時間すべてに忠実である。それでも美味いといえる料理はできない。でもめげずに作り続ける。今回もどうしても香菜が必要なのである。最後の望みはあと一軒。それは家の近くのスーパー。急行。あった。パクチーブームは私の住む町には到達していないようである。
香菜は香味野菜の一種である。名前の呼び方も、パクチー、コリアンダー、コエンドロ、チュウゴクパセリ、香菜といろいろだ。ハーブとも香味野菜とも香辛料とも縁のない子供生活だった。日本の高校から途中でカナダの高校へ移った。カナダのスーパーで香辛料の瓶詰や缶がたくさんズラっと陳列されていて驚いた。知っていたのは近所のラーメン屋にあった粉胡椒ぐらいだった。料理の奥深さに興味を持った。それから20年後再婚した妻の海外勤務に同行した。最初の赴任地ネパールはインドの影響を強く受けた香辛料にあふれていた。クミン、ターメリック、カルダモン、初めて知る味の深淵な世界だった。カレーの原点は、私が考えもしなかった複雑な集合体だった。それからアフリカのセネガル、旧ユーゴスラビア、チュニジア、ロシアと転勤が続いた。チュニジアではアラブ世界の、香味野菜、ハーブ、香辛料の文化に傾倒した。またアラブ世界の香に対する造詣の深さと生活に見事に取り入れている様に驚嘆した。知人の農場で野生のローズマリーを主に食べて育った羊の肉を砂漠でとれた塩だけで味付けした焼肉の味は今でも忘れられない。(参考写真:ラムローストとローズメリー)
もともとハーブや香辛料は、熱帯亜熱帯の原産のものが多い。香菜もタイやベトナムなどで多く食される。日本の農業技術の進歩によって、今では一年中、国産のハーブが生で入手できる。喜ばしいことである。
世界中で自炊する人が減少してきている。パク女が店でプロの調理人が料理したパクチー料理を食するのはかまわない。それを一歩進めて、自らの手でパクチーを調理するようになって欲しい。一過性のブームで終わることなく、末永く香菜が日本人に受け入れられことを願う。
ヒラメの型押し(丸元淑生の家庭の魚料理 講談社 1900円 税別):材料 ヒラメの身 一尾(生きているもの) 香菜 たっぷり ショウガ(千切り)1個 昆布 型枠の同じ大きさ 2枚 塩 適量 ①ヒラメを薄く切って塩をまぶす。昆布を水で濡らす。②寿司の型枠に昆布を敷く。その上にヒラメの半分を並べる。その上にショウガを置き、さらにその上に香菜の葉を散らす。③その上に残ったヒラメを置く。④ヒラメの上に昆布を押し込む。⑤型枠の蓋をする。⑥重しを乗せて冷蔵庫で保管 2日目から食べられるが、3日目くらいが食べごろ。生きたヒラメだとだんだん透明になってくる。