今から50数年前、十代後半の私はカナダへ渡った。キリスト教の厳格な高校の寮に入った。まわりが皆キリスト教徒なので日本人として差別されることはないだろうと甘い考えを持っていた。
安倍晋三首相は12月27日アメリカハワイ州の真珠湾を慰霊のためにオバマ・アメリカ大統領と共に訪れた。私は二人がともに並んでアリゾナ記念館の2000名に近い犠牲者の氏名刻銘の前で頭を下げるのをテレビで観ていた。「Remember Pearl Harbor」(真珠湾を忘れるな) 「Jap」(日本人の差別語)が木霊のようによみがえった。
いったい私がカナダにいた間に、何回この言葉を投げかけられただろう。私はある時期までこの言葉を投げつけられると腹を立てた。しかし多くの日系人の話を聞いてからは考えが変わった。カナダでもアメリカでも日系人は収容所に入れられた。仕事、財産を没収され、劣悪な環境に押し込まれて自由を失った。彼らがどれほど「Jap Remember Pearl Harbor」とさげすまされたことか。想像を絶する。収容所跡へも行ってみた。涙を流すことしかできなかった。彼らの苦難と比べれば、私への「Remember Pearl Harbor」などどうっていうことはない、私はそう思うようになった。その分、「なんぞこれしき」と勉強に打ち込んだ。スポーツでも「Jap」と野次られて、火事場の馬鹿力を何度も経験した。
拙著『ニッポン人?!』に書いた「第2章 日本人は乗せない」の私の経験を掲載する。あれから49年、私を飛行機に乗せないと言った青年はどうしているだろう。あの私に救いの手を差し伸べてくれた日系の老人は、この世にいないことだろう。今回の安倍首相の真珠湾を公式に訪れたことを青年も日系老人もどう思っていることだろう。日系老人は5年の戦争で関係修復には100年かかると言った。第二次世界大戦後、まだ75年しか経っていない。今回の安倍首相の慰霊訪問は前進には違いない。しかしあの戦争が、どれだけ多くの犠牲を生んだかは、表面には決して出てこない。今も多くの人々の心にコールタールのようなわだかまりは残る。まだまだ時間はかかる。個人の意識改革が必要である。この贖罪が済まぬうちに次の戦争が起こらないことを祈るのみ。私は私自身に日本語で言い聞かせる、真珠湾を忘れるな!
抜粋「日本人は乗せない」:
カナダのアルバータ州の学校で学んでいたクリスマス休暇を迎えた1967年、私はアメリカ東部へ同じ学校の学生の車で旅行した。ペンシルバニア州の友人を訪ねるためだった。その車の所有者は結婚している学生だった。この学生がペンシルバニア州のピッツバーグまでの同行者を学校の掲示板で募集した。私が留学していた学校はカナダだけでなくアメリカ、オーストラリアなどからも大勢の生徒が来ていた。クリスマス休暇や夏休みの時、よくこうしてガソリン代を割り勘で払う同行者を募集していた。
カナダから国境を越え、アメリカのノースダコタ州に入った。同乗者は男4名女1名。私以外の男3名が24時間運転を代わりながら冬のハイウエイを突っ走った。途中山の中で鹿に激突した。それでも何とか予定通りオハイオ州まで到達した。ところが大雪で道路が閉鎖されてしまった。車の所有者以外は飛行機でそれぞれの目的地に行くことになった。名も知らない小さな飛行場で私ひとり降ろされた。飛行場は大雪で車やバスから急遽飛行機に変えた人びとで混雑していた。チケットを買うためにカウンターに並んだ。私の順番が来て、若い男性社員が私に応対した。「日本人?」と聞かれた。「はい、そうです」と答えた。「日本人は乗せない」と彼は冷たく言い放った。すでにカナダの学校から40時間以上狭い車の中に押し込まれていた。睡眠不足と疲れで頭がボーッとしていた。英語も完璧ではなかった。しかし自分が大変な状況に面していることはわかった。助けを求めるようにまわりの人びとに目を向けた。みな無視するように目をそらした。私は「理由を教えてください」と彼に言った。「私の父親は日本人に殺された」と彼は私をにらみつけて言った。「次の方どうぞ」と私の後ろに並んでいた黒人の紳士に言葉をかけた。紳士は黙って私の前に立った。
私をフィラデルフィアの友人家族は一緒にクリスマスを迎えるために待っている。まだ戦争が重く人びとの心に影を落としている。私は小さな飛行場のホールの中で途方にくれていた。空いていたベンチに腰をおろした。隣に日本人と思われる老人が座っていた。「日本からですか?」と日本語で声をかけられた。こんな時日本語は砂漠で渇いたのどに冷たい水が通るように心にやさしく染みとおる。「はい。今カナダで勉強しています」「大雪で大変ですね。何時の飛行機ですか?」 私はさっきカウンターで起こったことを老人に話した。彼は「一緒に来なさい」と彼は歩き始めた。身長は低いが姿勢よく私の前を行く。カウンターでなく彼は航空会社の事務所に入って行った。彼は航空会社の責任ある人に事の一部始終をきれいな英語で説明してくれた。女性が呼ばれた。彼女が私の切符を手配してくれた。老人は会社の人と固く握手した。老人は私を搭乗口まで連れてきた。握手を求めて「私たちは戦争を5年すれば、その後始末に100年かかります。こんなことに負けちゃいけない。体に気をつけて勉強しなさい。さようなら」 彼はくるっと向きを変え、もといたベンチに歩いていった。そこに彼の奥さんと思われる白人の女性がやさしく微笑んでいた。私はその老人の名前も住所も知らない。けれど私の心から彼のことが消えることはない。