団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

ゴミ拾う人

2016年12月02日 | Weblog

  散歩する。このところの気温の上がり下がりで、身支度に迷う。もともと生まれ育った長野県とは違い関東の海沿いは温暖だ。陽があたれば、真冬でも温かく感じる。落葉樹の葉がおおかた役目を終えて地面に戻った。道路にはいろいろな形、色の葉が敷き詰められている。なぜか葉をゴミとは思わない。ゴミといえば、最近、道路がきれいになった。数年前までは私の散歩コースにゴミは当たり前のように散乱していた。

 私は道路や歩道にゴミが少なくなってきた原因を突き止めた。行政が清掃しているのではない。この町には毎日、ビニール袋を左手に、右手に炭ばさみを持って歩く男性がいる。広範囲を歩き回っている。年齢は私と同じくらい。メガネをかけ、あごひげを少しはやしている。冬はえんじ色のジャンパー、夏は白いウインドブレーカー、下はいつも茶色のズボン。白い手袋。野球帽。身なりもいい。歩き方もシャッシャッと切れがいい。姿勢も良い。歩道、道路端に目を配り、落ちている吸い殻、空き缶、パンの包み紙、スナック菓子の箱、ビニール袋などをヒョーイヒョイと炭ばさみで拾い上げ、左手で持つ袋に入れてゆく。排水溝の格子状の蓋の中のたばこの吸い殻も丁寧に摘み上げる。この男性はこうして長年、ゴミを拾い続けている。

 よく日本はゴミもなくきれいな国だという人がいる。私はそうは思わない。都会だろうが田舎だろうがけしてきれいだとは思わない。駅のホームはガムの跡、線路やホーム下などは吹き溜まりのようにゴミが散乱、道路もひどいものである。いまだに立小便、痰つばを吐き捨てる者がいる。タバコの吸い殻も相変わらず多い。空き地の粗大ゴミの不法投棄も一向になくならない。私がカナダで暮らしていた時、出席していた教会で日本への宣教師の報告会があった。たくさんのスライドが映し出された。驚いた。富士山や美しい景色でなく、バキュームカーや汲み取り、川にせき止められたゴミ、排水溝のゴミ、川に浮く膨張して袋のような猫や犬の死体、立小便。恥ずかしくてその場にいられなくなった。宣教師は自分がこんな国で自分は一生懸命布教している。もっとサポートしてください、の気持ちでスライドを見せたのだろう。

 カナダだけでなく妻の海外勤務に同行して12年間ネパール、セネガル、旧ユーゴスラビア、チュニジア、ロシアで暮らした。下水処理場、ゴミ処理場なだのインフラが整備された国はなかった。清潔な水もなかった。停電は当たり前。ゴミの分別なんてとんでもない。道徳とかエチケットの段階ではなかった。人々の多くは今日どう生きるかと切羽詰まった状態に置かれていた。貧富の格差は、まるでゴミを出せるか出せないかで分かれていた。車から平気でポイポイとゴミを捨てる光景を見て、正直私もああしてみたいと思ったことがある。後でなんと愚かなと反省した。

 ゴミ拾う男性が毎日巡回するところは、実に気持ちよくきれいである。継続の結果である。彼に感謝する。私にはとうていできない。せめて私は自分のゴミや歩いている時拾ったゴミを家に持ち帰るようにしている。毎日ゴミ拾う人がいる反面、まだそのきれいにされたところにゴミを投げ捨てる輩がいる。今年の流行語大賞は“神ってる”に決まった。人間は“神る”ことも“ゴミる”こともできる。不思議な生き物である。


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