団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

終活整理、本との別れ

2014年04月23日 | Weblog

  晴耕雨読は私の老後の目標だった。だが耕す土地はない。住む集合住宅にあるのはベランダのプランターだけである。というわけで晴れれば散歩する。雨が降らなくても時間さえあれば本を読む。本を読むのと映画を観ること散歩することが私の仕事だと勝手に決めている。そこに作文を加えたいのだが、こちらはいつまでたっても上達しない。あきらめずに書き続けるしかない。

  去年、住む集合住宅のゴミ置き場に半端でない冊数の本がヒモで結わえられて積み上げられていた。洋書や学術書が多い。それを見て私は衝撃でその場を動けなくなった。私の本に対する“想い”は尋常ではない。本こそ私の師である。私の学歴に特記できることは何もない。本歴というか本から学んだことは学校で学んだことより遥かに多い。もともと集中力がなく、飽きっぽい性格だが、読書だけは私を別人に変える。読むのは遅い。速読できるのは天才秀才の証だそうだ。凡才な私は、大学ノートにメモを取りつつ、時間をかけてページを移動する。解らない言葉があれば辞書を引く。人生も道草ばかりだったが、読書も途中下車が多い。

 私が住む集合住宅には年寄りが多い。推察ではあるが、本の持ち主は身辺の整理を始めたと思われる。

 5,6年前大学教授を退職した知人が事情で東京へ転居する手伝いをした。大変な蔵書数だった。知人はまず自分が教鞭をとった大学に寄贈を申し出た。検討すると言われたまま、待てど暮らせど回答は結局来なかった。問い合わせると「まだ検討中で結論が出ていない」と言われ続けた。地元の図書館に打診すると「借り手の多い最近のベストセラー以外、寄付は受け付けていいません」と言われた。知人の蔵書にベストセラーは1冊とて含まれていない。最後の手段として古本業者を東京から呼んだ。査定はライトバンの貨物室をいっぱいになるほどの段ボール箱の本は「5千円。本当は片づけ代に2万円かかりますがそちらは勉強しておきます」と車体を本の重さで軋ませて、さっさと引き上げたという。

 私の整理は遅々として進まないが身辺整理を始めている。母はもう十数年前、私に言った。「私が死んだら、あの風呂敷包み2つだけを私の遺品として処分して」と部屋の片隅に置いた包みを指差した。きれい好きでいつも家を隅々まで掃除して整理整頓が上手である。妹一家に譲った家の6畳間に母は寝起きしている。布団と仏壇と小さなラジオしかない部屋だ。できれば私もそうしたいと願うが、とても私にはできそうもない。

 私はついに本を整理した。ビニールひもで縛り本の束を作った。知人の大学教授のようにまず地元の図書館に問い合わせた。知人が図書館員に言われたのとまったく同じ答えが返ってきた。私はあきらめない。必ず私の本を活用してくれる人か場所を探す。

 束ねた本から付箋が無数飛び出している。私がメモした箇所を示している。ほとんどの本は私と妻の両方が読んだ。同じ本を読んで感想を語った。同感もあったが受け止め方が違うことも多かった。どちらにせよ二人の会話を盛り上げてくれたことは事実である。幸せと思える二人が生きていることを実感できた時間である。本の山を目の前にして思う。私は金持ちにはなれなかったが、本持ち時間持ちになれた。本がただ“積んドク”だけでなかった。読んだ本から学んだ多くの記憶を呼び戻すことは、老化によってできなくなってきたが、脳の細胞のどこかに記憶は確実に残って沈殿している。私はその貴重であり且つ得体のしれない堆積物と共に宇宙の塵に還る。愉快に思う。それで良いのではないかと私は受け止め、本と別れることができそうだ。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする