団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

頭が高い

2014年09月08日 | Weblog

  散歩の途中、ボランティアの人々が川の中洲の草取りしているのを見た。感心する。麦わら帽子に虫除けのネットをつけモンペに割烹着風の上っ張り。地べたに這いつくばってぼうぼうに茂る雑草を手で引き抜いている。気温は優に30℃を超えている。

 次の交差点に来ると片手に炭ばさみを持ち、もう一方の手にビニールのゴミ袋を持った男性が路肩のタバコの吸い殻や空き缶ゴミを拾い集めていた。腰を屈め頭を下げて一つひとつ器用に炭ばさみでつまみ上げる。

 以前私は「ご苦労様」と声をかけた。鎌倉の学習会で先輩諸氏から「ご苦労様と言うのは、上から目線の物言いだ」と諭され「お疲れさまです」か「ありがとうございます」のほうが良いと教えてもらった。ボランティアやゴミ拾いをしてくれる人々に上から目線で物言える立場にいない。使う言葉で誤解されるのは嫌である。現在私は「おはようございます」「こんにちは」と挨拶して「お疲れさまです」「ありがとうございます」を状況によって付け加える。

 結婚は何事も低いほうの相手に染まる、と本で読んだことがある。私と妻も生活の中でお互いに影響を与えあっている。結婚当初から妻の行動で感心することがある。それは玄関で見られる。妻は出かける時、家の中で履いていた室内履きを腰を屈め頭を低くして揃える。帰宅した時すぐ履けるよう向きを変える。当然履いてゆく靴も棚から出して腰を屈め頭を下げた姿勢で静かに床に置く。私の室内履きや靴が揃えられていない時は、黙って揃えてくれる。自然にやってのける。私は雑である。室内履きは脱いだまま。棚から選んだ靴は、床にポンと投げ落とす。常に腰はまっすぐで頭が高い。躾なしそのものである。その私の低さに妻は頑として迎合浸食されず20年以上自分を保つ。家の中も綺麗に整理整頓清掃できている。偉いと思う。

 普段生活の中でつい示してしまう行動仕草は、その人の生き様を表す。傲慢、尊大な人はいくらでもいる。テレビに映る人々はそんな人ばかりである。しかしそうでない、そっと静かに頭を垂らして生きている人々に遭う機会が何と少ないことか。だからこそ、その出会いはそう快である。

 日本人の平均身長は低い。明日行われるテニスの全米オープン決勝戦にまで勝ち進んだ錦織圭選手は身長178センチ、一方対戦相手のクロアチアのチリッチ選手は198センチである。私が50年前カナダの高校へ編入した。27名のクラスで身長174センチの私より低い生徒は1人しかいなかった。錦織選手に当時の私の身長コンプレックスが重なる。彼の優勝を期待と共に待ち望む。身長が低くても世界で活躍する日本人スポーツ選手は多い。嬉しいことである。背が低いことは悪いことばかりではない。何より「負けてなるものか」の気迫を持つ。その特性を研究創意工夫努力を重ねて活かそうとする。

  長い封建時代、庶民は「下に下に」と権力者への服従を強いられ土下座を命じられた。地面に額をつけて生きた。土と接して生き抜いてきた。日本人庶民の血にその打たれ強い不屈なDNAが脈々と受け継がれているはずだ。悲しい歴史であるが、謙虚謙遜は日本人と美徳となった。自由を得た現代において土に頭を近づける生活は、人間性を高めてくれる気がしてならない。

 散歩の途中、ボランティアの人々が河原につくった花畑でヒマワリを見つけた。2メートルを超す高さの先頭の大きな花ががっくり首を落としていた。重そうだ。実がびっしり詰まっている。種の保存のために水分を絶って乾燥段階に入ったのだ。その様は「実るほど頭が下がる稲穂かな」の日本人の理想像として私の目に映った。

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