団塊的“It's me”

コキロク(古稀+6歳)からコキシチ(古稀+7歳)への道草随筆 2週間ごとの月・水・金・火・木に更新。土日祭日休み

葉書

2019年07月08日 | Weblog

 「紫陽花が終わり朝顔の季節になりました。おかわりございませんか?ご無沙汰しております。私、下記のところに入居いたしました、今後贈り物などは失礼させていただくことになると思います。今までの暖かいお心遣いに感謝いたします。ありがとうございました。どうぞお大切にお過ごしください」

 一枚の葉書が雨の激しく降る日に届いた。湿度100%だった。マンションの1階の玄関ホールの床は、石材なので石と空気の温度差によって水分が生じる。エレベーターの前と階段を降りきった部分が特にビショビショだ。以前滑って転んだことがあるので慎重に一歩一歩進む。そんな日の夕方、郵便受けに一枚の葉書が横たわっていた。

 Nさんからの葉書だった。Nさんの夫は現在85歳。すでに施設に入っている。Nさんはずっと一人で集合住宅に暮らしていて、夫が入院する施設を行ったり来たりしていた。Nさんもすでに80歳を超えている。夫が元気だった60代にくも膜下出血で倒れた。夫は私に電話をくれた。「〇子が死んじゃう」と泣きじゃくっていた。しかし救急搬送された大学病院で長時間にわたる手術で命を取り留めた。あれから20年近く、Nさんはすっかり元気に暮らしていた。そのNさんが施設に入る。一人暮らしの力が尽きたのか。それにしてもこのような葉書をしたためて送るとは礼を知る人だ。

 私たち夫婦が結婚できたのは、妻の高校の担任だったI教師の仲立ちがあったからである。私がブログを始められたのもパソコンに精通していたI先生のおかげだった。日本へ帰国休暇で戻った時、パソコンの購入からブログの投稿の仕方を教わった。まだ海外に私たちが暮らしていた頃、ネパールと旧ユーゴスラビアへわざわざ私たちを訪ねて来てもくれた。現在私たちが住む家にも訪ねてくれた。鉄道の旅が好きで『青春18切符』を使って一人で全国を周った。山菜採りの名人で山野を駆け巡った。それらをブログにこまめに載せた。I先生のブログを読むのが楽しみだった。妻が外務省を辞めて勤務医になっても交流は続いていた。ある年、年賀状をその年から失礼するという葉書が届いた。それから間もなくブログが前触れなくとまった。I先生の決意表明だと受け止めた。

 さてNさんもI先生も礼をもって付き合いに終止符をうたれた。果たして私にそれができるだろうか。51歳の時、心臓の狭心症で心臓バイパス手術を受けた。友人から『辞世帖』の作成を勧められた。それを進言された時、私は特にお世話になった人々に手紙を書いた。辞世帖を大学ノート1冊に書き上げた。あれから20年以上が過ぎた。今でも辞世帖は大切に保管してある。その辞世帖と恩人への礼状を終えた後、何か大仕事を成し遂げた充実感が湧き出た。その充実感は、ある病気に良く効く薬を手に入れ、ずっと飲み続けている効果を実感できているように思える。手術後の人生は“おまけ”だと思っている。

 Nさんの葉書、悲しいけれど、朝顔の花のような清涼感もある。辞世帖のあとにも新しい付き合いが数多くうまれた。いつかNさんと同じようなI先生と同じような葉書を出す日が来る。その日が“いつ”か私に見極められることを祈るばかりである。

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