団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

合格発表

2020年02月27日 | Weblog

  新型コロナウイルスの感染が拡がっている。年齢が72歳で糖尿病を患う私は、できるだけ外出を控えている。ゆううつな日々が続いている。加えて3人いる孫の一人が大学受験を受験した。その発表が25日と26日だった。今年は彼が受験と言うことで孫にも彼の家族にも会っていない。私は孫を刺激してはいけない想いで、連絡もとらずにいた。26日の夕方、電話が鳴った。オレオレ詐欺を防ぐために留守電に設定されている電話は、5回コールで録音機能が作動する。書斎から急いで留守番に向かう。脚と気持ちが同じ極の磁石のように反発しあう。電話に到着。寸前に5回コールは終わった。受話器を取る。「もしもし」「俺だけどさ」 来たか、オレオレ詐欺!よく聞くと本物の息子だ。「どうした?」「A大学はだめだったけれどB大学とC大学は受かっていた。でも話し合って本人はどうしてもA大学へ行きたいというので浪人すると決めた」

  私は面食らった。B大学だってC大学だって難関だって。そこに合格したなんて凄いじゃないか。何故なら孫は中二で難病指定の病気を発症。その後入退院を繰り返していた。成績は急降下。所属して活躍していたサッカー部もレギュラーでなくなった。見舞いに行くたびに薬の副作用で元の面影もない孫にかける言葉を失った。同室の他の3人の子供達は全員薬の副作用で髪の毛がなかった。最年長の孫は、他の子供から「お兄ちゃん」と呼ばれ、勉強を手助けしてやってもいた。私は彼が生きていてくれるだけでいいと思った。都立の中高一貫校に合格した頃は、それこそ末は博士か大臣かと大きな期待を持った。私だけではない。彼の両親だってそうだったに違いない。それでも両親は、彼を支えた。新薬が出るたびに保険適用されないので高額な費用を捻出してきた。新薬の効果はなく、病状は変わらず入退院が続いた。

  症状が悪化すると痛みで苦しんだ。それでもサッカーを続けた。試合に出られなくても、登校できれば、ベンチから仲間を応援した。去年11月、全国大会出場をかけて都大会に臨んだ。かつては東京都代表で全国大会に出場したサッカー部である。孫がその学校に進学を決めたのもサッカーが強いという理由だった。予選敗退。自分が出場していたら、と母親にぼそっと言ったそうだ。それから彼は受験勉強を始めた。英語数学は平均以下だが、国語の成績は良かった。それは長い入院生活で彼の読書量が半端ではなかった。何が功を奏すかわからないものだ。彼の受験勉強の弱みを読書が救った。模試でも国語の得点はずば抜けていた。

  私は塾で20年間教えた。多くの生徒の受験指導をした。毎年合格発表の時期は胃が痛くなるほどだった。塾を閉じて30年たった。孫の大学受験で塾当時の胃の痛みが戻っていた。当時は何十人もの心配だったが、今回は一人だけだった。今回は新型コロナウイルス騒ぎも心配を倍増させた。孫にとって感染症は致命的なのだ。そんな中、受験を無事終え、結果の知らせを待っていた。なかば諦めていた。どこでも行ける大学があればよいと自分に言い聞かせていた。まさかB大にもC大にも合格するなんて思ってもみなかった。

  孫の人生である。助言はするが、孫自身で決めればよい。A大でもB大でもC大でもいい。孫自慢は私がもっとも避けたい事象であるが、今回は違う。「アッパレ、でかした!」と私は地に足がつかないほど喜んでいる。鬱から憂へとまるでジェットコースターのような浮き沈みに翻弄される。

 きっとそのうち彼の病気の治療法もみつかる。水泳の池江璃花子さんだって苦しい闘病に打ち勝って退院した。どうしても孫と彼女を重ねてしまう。若くして重い病気と闘う多くの患者の回復を祈る。

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