スーパーへ夕食の食材を買いに行った。町のスーパーは2つの店を買う物によって使い分けている。魚類の品ぞろいが良いよい店。野菜と果物の種類が豊富な店。前者は小規模店で後者は大規模店である。ダイエット中なので魚を買うことにした。
刺身を選んでいた。1970円の盛り合わせは私たち夫婦には多すぎる。かといって760円の方には1970円に入っているホウボウがない。迷っていた。ググッと肩掛け鞄を押された。私は一歩左側の横に動かされた。何が起こっているのか確かめようと右側に目を向けた。男性がショッピングカートを私に接触させていた。
赤と黒と白のめの細かいチェックのシャツにダークグリーンの網がやけに面積の広いカメラマンベストを着た男性だった。背は私より低い。スタイルも服装もどこにでもいるオッサン風である。この店のショッピングカートは旧式の金属製の重いタイプのものだった。内心失礼なオヤジだと思った。口から「押さないでください」と出そうになった。男の横顔どこかで見たことがある。そういえばこの男性を大規模店でも見かけたことがある。この辺に別荘があるそうだ。
再びカートが私を押した。男性は1970円の刺身の盛り合わせを目に近づけて見ている。眼光鋭い。私は咄嗟に口に言葉を発するのを止めさせた。その目つきで、この男性が誰か分かった。
私の父は10歳の時、小学校中退で羊羹屋へ奉公に出なければならなかった。学歴はなかったが父は子どもたちに小さい時から躾が厳しかった。その中で他人の体に触れるな、触れたら謝れがあった。カートを私に押し付けた男性は東大卒で秀才だったと聞いている。どんな秀才であれ、どれほど偉い人であれ、品性は自分でどうにかなるものではなさそうだ。
黙っていないで私は何か彼に言うべきだった。そして彼の反応をみて彼がどんな人物かを見極めればよかったのかもしれない。
私は店を出ることにした。その場を離れようと歩き出そうとすると5,6メートル先にダークスーツを着たガタイのいい男性が私にカートを押し付けた男性よりさらに眼光鋭く私を見た。SPか。そうに違いない。もう一人が反対側にいた。SP二人か。経費凄い額だな。この店にダークスーツで買い物に来る客はほとんどいない。私はSPを睨み付けた。「あなたが守っている人は、他人に意味もなく触れても謝ることさえできない。それに私のような小市民を疑いの目で見るあなたはもっとかわいそう。せいぜい今夜はご主人様と1970円の刺身をつつきなさい」と思ったがもみ消した。
何も買わないで店を出るのも勇気がいる。万引きしたと疑われる。でも私はたとえ疑いをかけられてもかまわなかった。気分が悪かった。一刻も早く店から出たかった。レジの前を通過する時、私は要人の方を見た。彼はまだ1970円の刺身の盛り合わせをとっかえひっかえ選んでいた。庶民的なのか?そのふりをしているのか、わからない。とにかく小市民は選挙という制度で小市民とかけ離れた階層の“偉い人”をつくりだす。
車に入って深呼吸した。何故か亡き父親を想った。「他人に触れるな。触れたら謝れ」「あいさつをきちんとしろ」「他人に迷惑かけるな」「強い者につくな。弱い者につけ」「自分あて以外の手紙や書類を開けるな」「他人と自分を比べるな。他人を羨ましいと思うな」父から多くのことを学んだ。そのほとんどを守ることは出来なかった。
カートで押されたことを、これほど不快に感じる私は、間違いなく父に育てられたと自覚する。欠点もあり全てを肯定できないが、小学校も満足に行かなかった父が偉くみえた。