いよいよ今度の日曜日は衆議院議員選挙の投票日である。
選挙の形態は私が生まれてこのかた変わっていない。世の中には進歩進化した様式や文化で溢れている。選挙は別だ。旧態依然。出馬する人種も似たり寄ったり。お坊ちゃま、お嬢ちゃま達のオンパレード。そうでなければ宗教や団体組織が送り込む議席数獲得のためのグループ内の年功序列と権力闘争で選ばれた要員である。
しばらく前、駅の構内で子供や母親たちが何かの募金活動のために「・・のための募金よろしくお願いいたします」と声を張り上げていた。街ではハッピを着せられた若い女性が呼び込みで声を上げていた。デパートや商業ビルでは大売出しに店員たちが声を張り上げる。私はこのような声を張り上げる行為が大嫌いである。このような呼びかけで募金や買うことを決めたことはない。苦行以外のなにものでもない。どのくらい募金額や売り上げに影響があるのか科学的な分析をして欲しい。
団塊世代だったために中学に入学して野球好きだった父を喜ばそうと野球部に入った。90人の一年生が入部した。グランドの外野をぐるっと囲んで来る日も来る日も「オー」「ウォー」などとただ大声を張り上げさせられた。正選手になれない上級生が見回ってきて「声が小さい、グランド3周、腕立て伏せ100回」などと新入生いじめに精を出した。
日本にはこのような底辺の人々に無理難題を押し付けるイジメのような風習が根強く残っている。愚民化ともとれる。選挙という制度に於いてはこの愚民化は成功しているようだ。有権者の多くは未だに古き因習から脱却できずにいる。国会議員という特権階級になるために選挙運動期間中だけ立候補者は上から下へ降りてくる。最近選挙カーの多くが軽自動車になった。歩いてみたり自転車に乗ってみたりもする。普段はアルバイトや新入社員や部員しかやらされない大声を張り上げることもする。駅前で出勤途中の労働者や一般庶民に「おはようございます。ご苦労様です」と声をかける。「ご苦労」という言葉が上から目線の言葉であることを知ってか知らずか使う。演説なのかアジなのか知らないが口を開けば所属する政党や団体や宗教の党利党略に迎合した原稿をお題目のように繰り返す。自分の言葉で政治を語る候補者がいない。一人でもいい、普段自分が乗っているベンツやBMWで遊説してしてみなさい。私はその人に投票する。なぜなら虚勢を張らず正直だから信用できそうだからである。
テレビやラジオの政見放送でも熱く訴えることがない、喋りが下手、みてくりが悪い、声が悪い、服装にセンスがない。昨今のテレビ出演者の世界と政治の議員になる類の人々の世界はおそろしく似ている。ラジオで作家の佐藤優さんが「若い議員の多くが金を使わない」と言っていた。アナウンサーが「政治家は金がかかると言いますが?」と問うと「せっせと貯金しているんです」と答えた。聞き捨てならない。以前から日本の地方にしろ国にしろ議員は一つの就職先でしかないのでは、が私の感想である。「若い当選回数の少ない議員がどんな仕事をしているのか見えてこない。金を自分の更なる成長のための勉強に使わない」とも佐藤優さんは言った。
私の提案である。国会議員に初当選した議員は議会活動のかたわら1年間議員学校で徹底的に学ぶ。履修科目は外国語、介護施設での実習、東北の地震被災地の仮設住宅での暮らし体験、国際マナー、服装センスアップ、演説、作文など。成績は国民に公表する。
私は誰に投票するかを外国語が話せるか、自分で本を書いて出版しているか、自分の言葉で演説できるか、見映えは良いかなどを基にチェックして決める。今回も飛び地のような私が住む地域に選挙カーは1台も来ない。うるさくなくていいのだが、見放されているようにも感じてひがんでいる。