団塊的“It's me”

コキロク(古稀+6歳)からコキシチ(古稀+7歳)への道草随筆 2週間ごとの月・水・金・火・木に更新。土日祭日休み

サッカーワールドカップブラジル大会

2014年06月30日 | Weblog

 サッカーワールドカップC組でベスト16目指したザックジャパンの予選3試合が終わった。私は3戦ともテレビの前で応援した。結果は日本1-2コートジボアール、0-0ギリシャ、1-4コロンビアで敗退したがアッパレだったと私は思う。試合前試合後、スポーツ評論家やサッカー評論家やもどきがいろいろ騒いだが私は耳を貸さない。テレビの中継でもアナウンサーと解説者の喋りが邪魔だ。サッカーは、競技場でプレイする選手たちとスタンドから試合を観る応援団だけが臨場してこそ楽しめるスポーツの一つである。直接観戦できなければ、ラジオやテレビに頼るしかない。ラジオやテレビが視聴者のためにしなければならないことは、実況だけである。

 私は熱狂的ファンではないが、4年に一度のサッカーワールドカップの観戦が好きだ。4年に一度の開催を誰がどう決めたのかは知らないが、絶妙な間合いだ。長いようで短い。短いようで長い。しかしこれが毎年続くとなると今ほどの熱は入らない。オリンピックも4年に一度だが競技数が多すぎる。興味のない競技もある。その点サッカーのワールドカップはサッカー一種目だけだ。迷うことがない。

 サッカーの魅力は3つある。
①サッカーは国家の代理戦争と言われる。本当の戦争よりサッカーのほうがずっと良い。まず90分と戦う時間が制限されている。審判によりルールに則って即断即決される。今地球上には国際紛争がある。国際裁判所にさえ提訴できず、たとえ提訴してもダラダラと判決には気が遠くなるくらい時間がかかる。それら不合理不条理をサッカーの試合ではあっという間に判定される。そして両チームは審判に従わなければならない。違反すればレッドカードで一発退場である。このスピード判定と解決は快感である。

②ゴールキーパー以外手が使えず、足だけでボールを扱うことにある。人間は手をたくみに使える。足も脚も手のようには、思い通りに動かせない。歯がゆさがつのる。たった一個のボールを敵味方乱れる中、味方を見極め足だけでパスして繋げ、最後はゴールキーパーが立ちはだかるゴールの網の枠の中にシュートする。

③11人キーパー以外皆実によく走る。平均一試合でひとりの選手が約10キロ走るそうだ。黒人、白人、黄色人種あらゆる人種が走る。背の高い背の低い筋肉質の痩せ形の体型もいろいろ。信じる宗教も違う。十字を切る選手、イスラム教式に祈る選手。人種背景、宗教背景、文化背景が違う選手が蹴る。ぶつかる。走る。選手たちのスタミナに感心する。動き回ってチャンスを作り、待つ。選手のテクニック、才能、連携の巧みさに酔う。90分間の耐久レースは見どころ満載である。

 今回のワールドカップで初登場のフリーキックの時、ボールの位置と防御ラインを白色のスプレーを使って記すようになった。これによって試合の運びがさらに円滑になった。進歩である。またPKエリアで反則を取られぬように手を後ろに組んで胸で相手にぶつかる形が多く見られる。ベスト16が決まった。世界最高のサッカーを毎日楽しめる。

 サッカーワールドカップは世界のあり方のひとつの理想かもしれない。鹿児島で最終キャンプをした時、日本チームが乗っていたのは韓国のヒュンダイのバスだった。もちろんブラジルではどこの国のチームもヒュンダイのバスに乗っている。ヒュンダイは公式スポンサーでバスを提供している。負けて日本チームが帰国した時、空港の出口の看板はすべてサムソンの「お帰りなさい ギャラクシー」のものだった。日本が負けて唯一ベスト16へのチャンスがあったアジアからのチーム韓国対ベルギー戦で、日本のテレビはアナウンサーも解説者も本気で韓国を応援していた。

 スポーツはルールによって支配される。敗者は勝者を讃える。勝者は敗者を労い気遣う。試合後ユニフォームを交換する姿に野蛮さも恨みも憎しみもない。ルールに従い審判に服従した死闘があったからこその清々しさが漂う。闘争心と競争心に溢れる人間の本性の究極の姿に思える。日本のサムライブルーチームは正々堂々と闘い終えた。今回の結果は良くなかった。再度立ち上がればいいことだ。日本はあらゆる分野で成熟してきていると感じる。

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