団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

セブン・イレブン♪いい気分♪

2012年04月11日 | Weblog

 散歩の途中、セブン・イレブンに寄って東京電力から送られてきた請求書の支払いをした。アマゾンで本を買って振り込みをしたことがある程度で、コンビニに普段無縁である。

 制服に身をつつんだ20歳前後の少しふっくらとした女性が、応対した。請求額の3771円を受け皿に置いた。女性は、3枚の千円札と500円の硬貨1個、100円2個、10円2個、1円1個を面倒くさそうにはじくように数えた。「おしていただけますか」とはっきりしない発音でぶっきらぼうに言った。私は彼女が私に話していると思わなかった。まず私の後ろにだれかいるのかと振り向いた。だれもいなかった。ひとり言?そうでもなさそう。2,3メートル離れた隣のレジにも店員の女性がいた。店員同士の会話でもなさそう。他のレジにも客がいて接客中である。ならば彼女が話しかけているのは私しかいない。彼女は不機嫌そうに「おしていただけますか」とまた言った。「いただけますか」は、セブン・イレブンの接客マニュエルにある丁寧表現であるのだろうが、彼女の気持は、丁寧親切からはずいぶん距離があった。あまりに鈍い客の私に苛立ったのだろう。私の前のカウンターの左横のモニターの画面を指差した。私にはまだわからない。彼女はため息をついた。モニターの画面の「確認」という文字の近くを指し示した。

 口を開いて説明すれば「お客様の脇のモニターの画面に『確認』の表示がありますので、画面の表示内容を確認されて、よろしければ『確認』を押していただけますか」となるはずだ。それを彼女は唐突に「おしていただけますか」と文章のほとんどをはしょって言った。主語の省略は認める。しかしそれ以外の省略があれば、私には理解不能となる。私には、「おす」が「押す」とさえ理解できなかった。まず「おす」が不明で頭の中で迷子になった。毎日、妻以外との会話がない。ベッドから立ち上がるのがしんどくて、妻に手を引いて立ち上がらせてもらうことはある。夫婦の日常の会話に「おす」の言葉も動作も、ほとんどない。「いただけますか」は、聞く限り丁寧な言葉である。この言葉には、何より気持がこもらなければならない、と私は思っている。美しい日本語が壊れていくのを今の日本でみるのは辛い。

 接客マニュエルなるものができ、店での会話が規格化されてしまった。気持をどこかにおいてきてしまった会話は、味気なく、薄っぺらで、白々しい。私は店員女性に「もっとだれにでも分かるように丁寧に話してください」と言った。ずっと不機嫌に(ジジイ、つべこべ言わねえで早く押せ)と顔をふくらませていた女性は、振込み用紙の片隅にシャチハタの領収のスタンプを「バシャン」と勢いよく押した。

 何か割り切れない切ない気持でセブン・イレブンの緑と赤とオレンジ色のマークがあるドアを押して店の外に出た。昔、たしかこの企業は、「♪セブン・イレブン♪いい気分」と歌って宣伝をしていた。それを思い出して、私は鼻で笑った。

通りには、コブシの並木があり、花は純白から茶色がかってきていた。それでも何百本と並ぶ白い列はキレイだった。道路に面した民家の庭は、花盛りである。五月中旬の陽気だとテレビの天気予報で言っていた。空を見上げると、真っ青だった。ジェット機が白い飛行機雲を描きながら、北西に向かって飛んでいった。朝のキリスト教のラジオ番組で繰り返される番組スタートの言葉「愛がなければ、どんな言葉も心に響かない」がふと心に浮かんで消えた。

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