団塊的“It's me”

コキロク(古稀+6歳)からコキシチ(古稀+7歳)への道草随筆 2週間ごとの月・水・金・火・木に更新。土日祭日休み

汚物タンク殺人事件

2011年12月13日 | Weblog

 2009年、滋賀県米原市で女性会社員小川典子さん(当時28歳)が、小川さんと交際していた森田繁成容疑者(当時40歳)に殺害された。警察の捜査の結果、その後山中の汚泥タンクの中から遺体が見つかった。裁判員裁判で裁かれているが、懲役17年を求刑されているが、いまだに結審されていない。殺人事件は毎日のようにある。しかしあの事件は私を腹わたが煮えくり返るほど怒らせた。殺すことも許せないが、人間を生きたまま汚物タンクに投げ入れ、殺したことをどうしても許せない。

 なぜ私がそれほど怒ったのか。それは私が子どもの頃、ポットン便所つまり汲み取り便所を知っていることと、トイレの汲み取りや汚物タンクの清掃と洗浄を私自身がした経験があるからである。子どもの頃使っていた汲み取り便所だが子ども故の好奇心や怖いもの見たさでのぞいた。しかし仕事として命じられてやったトイレの汲み取りや汚物タンクの清掃はまったく別なものだった。

私は新聞を読んだ時、そのおぞましい光景が臭いさえ伴って、現実味を持って迫った。カナダ留学への体験学習と誘われ、結局寺男のように働かされた。初めてその仕事を命じられたのは、軽井沢のキリスト教の団体施設だった。夏の軽井沢には多くの外国人宣教師が避暑のために日本中から集る。そこの別荘やバンガローは、水洗トイレが付いているものと付いていないものがあった。汲み取りトイレにしても水洗トイレにしてもさして変わらない。当時軽井沢には下水処理場はなかった。水洗トイレは敷地内に一か所のタンクがあり、そこに汚物が集められ、処理をして地下に浸透させるという簡単なものだった。

 私は裁判の判決にハムラビ法典の「目には目を、歯には歯を」を採用して欲しいと願っている。昨今、人権主義者と言われる罪人にとことん優しい法関係者が多く活躍している。ハムラビ法典などと私が言えば、その人たちをいたずらに刺激するだろう。私は、紙に文字で書かれた法律も必要だと思う。しかしどんな理由があったにせよ、汚物タンクに生きたまま沈めて人間を殺すなぞ許しがたい。人権主義の法職者は、おそらく自分の排泄物など水洗のボタンを押せばそれで終わりと思っているだろう。便所の汲み取りにせよ、汚水タンクの清掃でも、それら作業を自分がすることなど有り得ない人々である。どんな方法でもいい。汚物タンクで人殺しをしたなら、酸素ボンベを背負わせてでも、ビニール袋に入れ、汚物タンクにその犯人を1分でもいいから沈めて、被害者の屈辱を経験させて欲しい。判決がどうこうという前に、更生がどうのこうのという前に、汚物タンクに沈めることで、そのあとの事は自ずと道が開かれると私は信じる。

この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« シンガポールの寿司屋 | トップ | テレフォン人生相談 »
最新の画像もっと見る

Weblog」カテゴリの最新記事