イチローがアメリカ大リーグでの3000本安打の大記録を打ち立てた興奮も冷めやらぬのにテレビで「イチローが嫌い」のCMのタイトルに目を奪われた。妻が吠える。「個人名を出して嫌いだなんて言う」
手元に『最強のコピー ライティングバイブル』(神田昌典監修 横田伊佐男著 ダイヤモンド社 1980円+税)がある。「見出しとは、キャッチコピーである。キャッチコピーで見てもらえなければ、どんな説得力あるボディコピーもうまく機能しない」(P74)この点で妻はもうコピーライターのワナに捕えられたのである。
CMはトヨタ自動車のもの。イチローがトレーニングに打ち込む場面。次にオリンピック棒高跳びの選手、パラリンピック水泳の選手、パラリンピック走り幅跳びの選手、パラリンピック車椅子テニスの選手が異なるCMに登場する。どの選手も「イチローが嫌い」と言う。そして理由を述べる。「イチローを見ていると限界と言う言葉が言い訳みたいに聞こえるから」など今までにイチローが言ってきたことをつぶやく。
妻はCMのボディコピーが終わる頃、表情が和らいだ。妻は努力の人である。自分にも厳しいが他人にも厳しい。イチローのように自分の目標達成のためならあらゆる犠牲をいとわない人に敬意を払う。私のように自分に甘く他人に冷たくエエカッコシイの根性なしとは違う。
私たち夫婦はかくも両極端な性格である。もうとっくに性格の不一致で結婚が破たんしてもおかしくないはずである。しかし意外な事にこれだけ性格や感性が違うと争うことがなくなる。お互いがお互いをまず理解できないのである。まるで他の宇宙からやってきた異星人のようなのだ。あまりの違いに驚き、やがて驚きは尊敬にまで至った。
イチローが3000本安打を達成した試合を私はテレビで観戦した。妻は出勤していた。試合は中断され、敵味方がイチローを祝福。チームメイトがイチローに駆け寄り抱き合って祝福する。黒人、白人、アメリカ人、キューバ人、ドミニカ人、皆一緒に祝う。人種差別はある。イチローが16年間アメリカ大リーグでどれほど差別の辛酸を味わったことか。いまだにイチローを認めたがらない輩は多くいる。それでもスポーツの世界は実力の世界。結果が全てである。
興奮冷めやらぬ中、試合は続行となった。テレビカメラはベンチの中のイチローをクローズアップ。イチローはサングラスをかけていた。更にカメラが頬の辺りをクローズアップ。汗か涙か。イチローの頬に一筋の液体。私は涙だと確信した。私は我慢できずしゃくりあげる。カナダ留学中の差別された数々の体験が甦る。私は何でも途中で投げ出す。イチローはしがみついて戦ってきた。凡人と英雄。
英雄は語る。「僕が何かをすることで、僕以外の人たちが喜んでくれることが、今の僕にとって何より大事なものだと再認識した瞬間だった」
世界は解決できない問題だらけである。スポーツの世界は違う。リオ・オリンピックも高校野球も、あらゆるスポーツは、規則があって審判がいて即、判定し最後に勝敗の結果が出る。スポーツは人間の素晴らしい発見だと思う。争い解決法がぎっしり詰まっている。それなのに人間は欲に目がくらみ、「スポーツが嫌い」とうそぶき、いまだにその真髄を学ばない。