本屋の文庫版新書コーナーで本の題名を見ていると、私の想定を超えた着目が多いのに驚く。先日『スキマの植物図鑑』(塚谷裕一著 中公新書 1000円+税)を見つけ購入した。散歩中よくスキマに生えた植物を見つけて「こんな所にどうして、凄い生命力」と感心している。スキマ植物の写真を撮り集め図鑑にしようなどとは考えない。そこが凡人と著者の違いである。
スキマ植物に関心を持っている。私は性格的に、自分とスキマ植物を同化している傾向がある。雑草だとか枯れすすきにも思い入れがある。
連日の30℃を超える酷暑が続いている。散歩は朝早くか雲が太陽を隠すスキを狙ってするが、それでも強い陽ざしを浴びる。快晴で直射日光の防ぎようがない日は家にこもる。
散歩の途中にもスキマ植物に目をとめる。今気になっているのは、スキマ植物というよりは、空中植物とでも呼ぼうか。(写真参照)生命力にただただ感心しきり。
30メートルくらいの川幅を電柱の倒壊防止のための鉄のワイヤーが張られている。サビ防止のためか黄色いプラスチックでワイヤーをおおっている部分がある。向う岸から10メートルぐらいのところに空中植物が生えている。元気そうだ。土はない。とすれば、考えられるのは向う岸の地面からツタを伸ばしてあそこまで到達して芽を出したに違いない。人間も動植物も生まれてくるのに親も環境も選べない。すべてを受け入れるのみである。スキマ植物ほど「あるがままに」生きている姿を私に教えてくれるものはない。
道路の多くが舗装される。植物にとっては災難である。種を結び熟して落下したところが、ある日突然厚さ数十センチのアスファルトやコンクリートで閉じ込められる。種の中には生命力が強く舗装を突破貫通して芽を舗装から出すものもある。よくテレビなどで道路端に芽を出し立派に成長した大根を紹介される。そんな種は何千何万のうちのごく少数であろう。この確率の低さに私のような卑屈な者でも感動する。どうせ何をやっても言っても書いても誰にも相手にされない、と僻みっぱなしの人生である。僻みの裏には、「認めてほしい、褒めて欲しい」の欲が出番を求めて渦を巻いている。身の程知らずのコンコンチキ。あぁ馬鹿は死ななきゃ治らない。スキマ植物に爪のアカがあるなら、煎じて飲みたい。
広島の豪雨による土石流と土砂崩れで多くの犠牲者が出ている。幼い子どもたちが多い。切ない。自然の力の前では人間もスキマ植物と変わらない。自然のご機嫌をうかがいながら生き延びるしかない。宅地も崖下や急斜面など住宅地に不向きなスキマの土地にまで造成を進めている。まさかの防災まで考慮して開発されているとは到底考えられない。私たち人間は、地球上の動植物の頂点にいるという傲慢さを反省するためにも、まずスキマ植物の生命力に注意を向け、初心に帰って学ぶ必要がありそうだ。