団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

ハズキルーペとセロテープ

2018年10月29日 | Weblog

  テレビの拡大鏡ハズキルーペのコマーシャルで渡辺謙が叫ぶ。「世の中の文字は小さすぎて読めない」 私は叫ぶ。「世の中のセロテープは透明で見えない」

 いつのころからかスーパーやデパ地下などで食料品を買うと頼みもしないのにビニール袋に品物を入れ、口をセロテープで留めてくれる。私はレジ袋が嫌いなので、自分の買い物袋かリュックサックを持参する。レジ袋はいらないと表示されたレジ横のカードを清算前カゴに入れても、商品のほとんどは個別にビニール袋に入れられる。それだけではない。袋の先端をねじるかまとめてセロハンテープで留める。このビニール袋は家にある『キッチンパック』のように半透明な薄い袋だ。おそらく商品から液や水分が漏れた場合を想定して気を利かせたのだろうが、これが家で問題を起こす。

 レジ袋や漏れ防護袋だけではない。例えばパック入りのサシミを買うとこれまた厳重にフタをしたりラップされたトレイに入れられて売られている。弁当、サシミ、肉、総菜、和菓子、シシトウとその数は膨大である。トレイには透明なフタがかぶせてある。家でこれらを開けるのが憂鬱なのだ。

 何が問題なのか。なぜ憂鬱になるのか。セロテープである。レジ袋にしろ、漏れ防護の薄い袋にしろ、トレイにしろセロテープを探すのが難しい。セロテープは透明である。袋やトレイが透明だと、そこにはられたセロテープは伊賀や甲賀の忍者の隠遁の術で姿を隠す。やっと探せても端っこから剥がそうと爪を立ててもなかなかめくることができない。もどかしい。端っこを捕まえたので引っ張る。セロテープの接着力は強い。セロテープが袋から離れない。袋のビニールが糸のようになるまで伸びる。切れない。あわよくばビニール袋を台所の流しのごみ入れにしようという魂胆で袋を現状維持したいと丁寧に扱っている。それなのにそんな気持ちは相手にされない。結局セロテープは、袋の再使用を不可能にするくらいに破れてしまう。

 透明なトレイのフタもセロテープで留められたら、そのいどころを見つけられない。ついセロテープで留められていることを忘れて強引にパックトレイを開けようとする。トレイが開くと脳は予測しているので、手は力任せに開けにかかる。急ブレーキがかかった車に乗っていたように動きが止められる。トレイのプラスチック蓋が破れる。破れるだけなら許せる。中身が飛び出す。セロテープがしっかり踏ん張ってフタとトレイをくっつけているのがここではっきり目に映る。

 私はセロテープにイチャモンをつけているのではない。使い方にモノ申しているのである。テープに色をつけるなりにして見える化を求める。たぶん却下されるであろう。薄利多売の競争激化の中、どの企業も経費削減に努めている。セロテープは透明だから安い。

 ハズキルーペはもう何年も前に購入した。ほとんど使わない。つけても老眼鏡よりよく見えない。メガネよりかけ心地が悪い。セロテープも常備している。便利なものだ。東海道新幹線の三河安城駅近くにセロテープの工場がある。大きな看板に「無くしてわかるありがたさ 親と健康とセロテープ」がある。すでにある「いつまでもあると思うな 親とかね」のことわざの引用かもしれない。陳腐だが会社は、自社製品に相当な自信を持っているのだろう。でもセロテープの使い方には改善の余地が、まだまだあるのでは。看板を目にするたびに私の頭に「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。たけき者もつひには滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ」の看板が描かれる。ただ心配なのは、セロテープもビニールもプラスチックもゴミになると“ひとへに風の前の塵”と同じにならないことである。

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