郵便局ではすでに年賀状を売り出した。今年もひとつふたつと喪中はがきが届き始めた。いつの間にか疎遠になっていた知人の訃報を告示する家族からの喪中はがきには、罪悪感を持つ。しかし取り返しはつかない。自分では悔いのない付き合いをしたつもりでも、喪失感と懺悔は拭い去れない。
現在まだ残されている付き合いも日ごとにしぼんでいく。望んでいるのではないが、どうしても向こうから、またこちらから疎遠の距離が増す。それはまるでグルグル回る遠心分離機に必死でしがみついている私たちが力尽きて手を放し、遠くに飛ばされていくようだ。すでに知人から年賀状は打ち切りというあいさつ状も何通か受け取り、また口頭で伝えられた。それも礼儀ある大人の態度だと私は受け止めている。人それぞれ考えがあっての決断で尊重したい。私自身も数年前から自分から年賀状を出すのをやめて、年賀状をいただいた方にのみ返事を書くことにしている。
私は自分の若さをずいぶんと無駄にした。若くして結婚して、7年後に離婚した。会社や組織で働いた経験はほとんどない。初めから年賀状にはあまり縁のない人生だった。自分で経営する小さな事業主だったが、教育関係だったので仕事上での付き合いもなかった。44歳で再婚した。妻の仕事の関係で海外に同行して住むために扶養者になった。海外を転々としているうちに年賀状の存在さえ失いかけていた。日本に12年前に帰国した。まったく縁もゆかりもない地に終の棲み家を持った。それでも定住すると新しい付き合いがうまれ、年賀状もそこそこ来るようになった。
離婚した後、いろいろ相談にのってくれた友人が私に言った。「人間五十前ならやり直しができる。だから今だ。五十過ぎたら間に合わない」その言葉を信じた。ガムシャラに復活再生を求めた。そのお陰で二人の子どもを大学卒業まで支えられた。何よりも44歳で再婚さえできた。54歳の時、狭心症で心臓バイパス手術を受けた。友人が言った50歳過ぎたら、は健康の意味もあったのだろう。私のやり直しは無駄ではなかった事と時間的に間に合った事に今は感謝している。
まだキリスト教を信じようとしていたころ、よく朝晩祈っていた。言葉に出して両親姉妹友人知人のことを祈った。祈りは言葉に出すことによって、自分の心を整理する作用がある。アメリカ、カナダの友人がよく「あなたのために毎日祈っている」と言った。私はあまり信じなかった。外交辞令のようなものだと思っていた。私の娘を7年間育ててくれたアメリカ人家族は熱心なクリスチャンだった。ある時娘が私に言った。「毎日家族がパパのこと祈っているよ。私も祈ってるよ」 私のことを言葉にして祈ってくれている人たちがこの地球上にいると知った。外交辞令でないこともある。
私は言葉に出して祈ることは今はない。祈る対象がなくなったからだ。私は線香をあげる。そして私より先に逝ってしまった友を思い浮かべる。一緒に過ごした時間を思い出す。言葉は発しないが、祈るように回顧する。
喪中はがきがまた届く。私は線香をあげる。目を閉じて思い出す。彼は言った。「私は中華料理を作って今度接待したい」 あれから呼ばれることはなかった。闘病していたのだろう。私は誓う。誰とでも真剣に付き合う。悔いが残らないように。