団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

上田の殺人事件

2009年01月14日 | Weblog
 11月21日午前8時ごろ、長野県上田市上丸子の唐木一男さん(82)の家が火災になり、警察が家の中で唐木一男さんが隣家の樋口邦雄さん(45)と倒れているのを発見した。すぐに両名とも病院に搬送されたが、唐木一男さんは死亡を確認された。樋口邦雄さんは意識不明の重体だった。この火災の20分前に近くの道路で、唐木さんの妻博美さん(75)が樋口邦雄さんの車の下で横たわっているのを近くの人の通報で警察が発見し病院へ搬送した。午後に唐木さんの妻は死亡した。

 殺人事件が毎日のように報道されている。ちょうどこの頃、元厚労省の事務次官山口剛彦さん(66)と妻美知子さん(61)が小泉毅容疑者(46)に殺された。そちらのニュースの陰になって上田の事件は、ほとんど報道されなかった。

 上田の事件は唐木さんの家に意識不明で倒れていた樋口邦雄さんが、殺人の容疑で逮捕された。21日の朝、会社へ出勤する樋口容疑者が車で唐木さんの敷地の一部に乗り入れ、公道に出ようとした。その現場を唐木博美さんが使い捨てカメラで撮影した。逆上した樋口容疑者が車を急発進させて博美さんを轢いた。樋口容疑者は博美さんを車で轢いた時点で殺人を意識したのだろう。唐木邦雄さんをも始末しなければならない、と考え、車をそのままにして放置して唐木さんの家に駆け込んだ。そして唐木さんの首を絞め、家に放火した。火の手が強すぎて自分も煙を吸い込み、倒れた。これはあくまでも私の憶測である。

 しかし私は子供の頃、私の家の両隣の盲学校の校長と高校の教師の壮絶な地境争いを数年間目撃している。何回か「殺す」という言葉さえ飛び交った。妻の実家の近所にもそのような争いがあり、休暇で帰省中、偶然その争いを見ている。これは長野県特有の問題ではないと思う。

 日本は古くて小さな国である。人々は古来、土地の所有を廻ってもめてきた。島国根性という言葉がある。こまかい事にこだわり、執拗に感情的になる傾向は、他民族より強くあるのかもしれない。地境、国境など境の問題は、動物的な縄張り本能から出ているから厄介である。

 ヨーロッパの古い都市の住宅が堅固な石でできているのは、恐らく境界でもめるのが嫌で、あのように隙間なくびくともしない、動かすことも不可能な、城のような壁の厚い家を建てたのでは、と私は考える。一方、アメリカやカナダ、オーストラリアなどでは広い住宅地に建つ、一般的個人住宅の周りに囲いや塀や垣根が見られない。私が学んだ人口3000人あまりの小さなカナダの田舎町は、現在でも日本でいう1000坪の土地が、たったの5ドルで買えると聞いた。大陸的という表現は、ものごとの詳細にこだわらない、おおらかな精神のことを表す。公道があり歩道があり前庭があり家がある。前庭を他人が横切っても気にしたり怒ったりすることは、よほどのことがないとない。

 日本人の多くは、公的態度と私的態度を使い分ける。仕事場で“良い人”であっても家に戻ると、以外や“偏屈オヤジ”となることもある。島国という狭小な環境が、人々との関係に余計な軋轢を生み、それが重くストレスになり、長い時間のうちに、問題を根の深い、解決を困難な状況までに、こじらせてしまう。日本の社会に蔓延する見える垣根と見えない垣根が、人々の心を病ませている。

 私が子供の頃見た、盲学校の校長と高校教師の諍いは、高校教師が定年退職した後、ある晩、夜逃げするようにどこかへ引っ越した事によって収まった。古い慣習やこだわりから“転地”することは、解決の一案である。ところが日本人にとって、住む場所を変えることは実に難しい問題である。人を殺して一生を棒に振るより、転地してシガラミから自由になったほうがずっと良い。分かっていても、それができない固執や確執が哀しい。

 日本は、英語でいうFAR EAST(極東)、つまり東の地の果てで、ここが行き止まりなのだろうか。もう逃げるところがない、の潜在意識が人々を犯行に駆り立てるのなら、あまりにも悲しい。亡くなった唐木夫妻も生き返らないし、犯人の樋口邦雄容疑者の人生も終わった。どちらか一方に転地、引越しする気力があったなら、と残念に思う。

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