団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

盲腸手術の真実

2009年01月05日 | Weblog
 私という人間の人となりを知ってもらえる話がある。

 私が小学校5年生だった時、担任のN先生は有名な暴力教師だった。同級のK君は宿題を忘れた。NはK君を階段の最上段に立たせて、後ろから蹴りを入れてK君を階段から落とした。K君は頭を床に強打して片方の耳が聞こえなくなった。Nはまったくこの件に関しても咎められることはなかった。当時の教師は絶大な権力を振るっていた。

 正月休みが終わり明日から登校という前夜、私は日記をまったくつけていなかった。一気に書き込もうとしたが、テレビの番組でどうしても見逃せない番組があった。日記を終わらせることはできなかった。明日、明日と先延ばしてきた罰があたると震えた。翌朝私は仮病をつかって腹が痛いと芝居をうった。心配性の両親は医者に往診を頼んだ。往診してきた医者が私の腹のあちこちを触診した。私はくすぐったがり屋であった。医者の指が私の腹を押すたびに私はゲラゲラ笑ってしまった。医者はあきれてまた帰りに寄ると言って、次の往診に行ってしまった。

 次に医者が往診した時、私は父親に怒られていたので、歯を喰いしばって、触診に耐えた。医者は自信ありげに「盲腸です。今日中に入院させてください。手術します」と両親に言った。私は青くなった。盲腸であるはずがない。私が一番そのことを知っていた。私はどこも悪くなく、ただNの暴力の恐ろしさを回避するための仮病だった。しかし私は決心した。Nの暴力でケガをしたり、視力や聴力を失うより、どうせなんの役にも立たないと他人が言う盲腸を切除したほうがましだ。どうせいつかは盲腸になり切除するなら、早めに切っておいた方が良いと思った。その晩、盲腸の手術を受けた。医者は立ち会った母親に「間に合って良かった。もう少しで手遅れになるところでした」そういって何やら白い盲腸らしきものを見せたそうだ。私は医者の言ったことを信じなかった。とにかくこの手術のおかげで日記の件をお咎めなしにできた。病院入院中にゆっくり友達から休み中の日々の天気情報を集め、休暇中の日記を完成させていた。

 この盲腸事件の後、高校に入学した時、その高校の後援会会長が私の往診をして、盲腸の手術をした医者だった。高校1年の時、今度は本当に腹に激痛があり、同じ医者に診てもらった。症状を話すとその医者は「盲腸だ」と言った。私は「先生に小学校5年生の時とってもらいました」と告げた。医者は「そうか。胃潰瘍だな。レントゲンを撮ろう」と何もなかったように言った。レントゲンを撮った後、医者は私に親を呼ぶように言った。そして親に私の胃を切除しなければならないと告げた。父親も今度は疑った。あの頃セカンドオピニオンを求めることは滅多にあることではなかった。別の町の胃腸科専門医に父親が私を連れて行って診てもらった。その医者に後援会長の医者の診たてを説明した。精密検査をしてもらった。結果はただの胃炎で切除する必要はない。薬で治ると断言した。その通りに治った。

 私はNのおかげで医療の実態を身を持って体験できた。医者の中にはいろいろな医者がいる。世の中肩書きや出身大学でその人物の実力を知ることはできないと痛感した。盲腸だけで済んで本当に救われた。私のような目に合い、実際に手術をされてしまう患者が日本、イヤ世界中にどれほどいるかと思うと恐ろしい。正月が過ぎると思い出す悪夢のようだった私の過去である。

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