備前焼 やきもん屋 

備前焼・陶芸家の渡邊琢磨(わたなべたくま)です。陶芸、料理、音楽、路上観察……やきもん屋的発想のつれづれです。

映画 『ずぶぬれて犬ころ』

2018-11-14 17:32:50 | Weblog


最近、映画を観る事が少なくなった。もともとお気楽なドンパチSF映画を観る事が多かったけれど、それでさえも。
久し振りに映画を見た。良かった。

先日、『岡山映画祭2018』という映画のフェスがあった。
数年前に袖触れ合う程度のご縁ながら、同じアートプログラムでご一緒した監督さんも出品されている。

『ずぶぬれて犬ころ』という一般初公開の作品。

内容は、現在いじめにあっている少年が、住宅顕信(すみたくけんしん)の俳句に出会い、彼の短い生涯をたどる物語になっている。
住宅顕信は、岡山県の僧侶にして自由律俳人で、1987年に25歳の若さで亡くなった。生前残した俳句は281句。



小生が大学入学の頃、バブル期のイケイケ空気感の中『サラダ記念日』がブームになっていた。
キラキラした『自由律俳句』の世界を横目で眺めつつ、現代音楽の不協和音に身を沈めていた日々だったか。
刹那的な輝きのバブルを少し味わっていた生活。

卒業して弟子入りする。程なくバブル崩壊。
全く畑違いの分野に身を投じた生活は、楽しかったけれど漠然とした不安もあった。不景気も感じていたし。
その頃に、ちょっとした住宅顕信ブームがあった。

久し振りに聞いた自由律俳句という言葉。
『サラダ記念日』のキラキラした世界ではなく、地面に近い視線、冷たさ、自暴自棄さえもあるその句に目を惹かれた。
自身の抱える不安感と共鳴したのかも知れないなぁ。

それから随分と時を経た。今回の映画は、再び目の前に現れた住宅顕信だった。
監督も知っているし、句も知っている。

見に行った。


映画は、実に淡々と描かれていた。
俳句という削った文学に対して、映像の削り方が対峙しているかのようだった。
いじめシーンであってもカメラはぶれることなく固定され、視点の高さもほぼ変わらない。
場面転換での旋律と言うにはあまりに短い数音のピアノが効果的。その前後にあるセリフの声の高さとピアノの音が近い。一旦、声が音に置き換わる事が場面を繋ぐ接続詞のようだった。
過去と現代を行き来する事で、冗長さが無くドラマが進む。

ラストシーン。
現代軸側の少年が横断歩道で見せる視線。顕信の句を知った者の生きる覚悟があった。
少年はまだ不安定さはあるけれど、自分で歩ける強さを秘めた。大丈夫。
生涯は信号のように期限があるけれど、二つの時間軸がひとりの中で合わさって映画が終わる。

余韻。

ちょうどオーケストラの指揮者が交響曲の最後の一音を止め、自分の動きも止めて、しばし後にゆっくりとタクトを下ろす……。その間合いを見るようだった。


来春には、一般公開されます。岡山では、シネマクレールとか。
ご機会ありましたら是非。


今回は終わってから座談会なども。

主演された俳優さんが、「知ることによって生き継がれていく」という趣旨で話されたのが印象的でした。
「このあとは、多分、岡山ラーメン食べて帰るんだろうなぁ」などとも。


久々に良い時間でした。

有難う御座居ました。




















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