備前焼 やきもん屋 

備前焼・陶芸家の渡邊琢磨(わたなべたくま)です。陶芸、料理、音楽、路上観察……やきもん屋的発想のつれづれです。

ジェネリック・ミッド・センチュリー

2014-11-25 11:48:55 | Weblog


先日、ネットで家具を見ていると気になったサイトがあった。サイトの作りもお洒落で上品かつ清潔な印象。
そして価格が安い。
20代半ば(ミッドセンチュリーの再ブーム時)にデザイナーの椅子に興味があって、集中的に見たり本を買ったりしていたので相場が薄っすらと記憶に残っている。

「ミッドセンチュリーの巨匠がこの価格?」というオドロキの価格だ。
ユーズドではない。しかも使われている色やファブリックに初見のモノまで沢山ある。
「あら、オシャレじゃん」と食い入るように見ていたが、次第に違和感を覚える。
足、接合部、縫い目、フォルム、部品数……。
今度は疑心暗鬼にサイトを見ていく。作っているのは某大国製が多いようだった。

やっと判った。
世に言う『ジェネリック家具』……少し前は『リプロダクト家具』とか言ってたっけ。

ジェネリックという言葉自体は、後発医薬品の名前で知っている。それの家具バージョンという位置付け。お洒落に聞こえる言い換えか。
不正コピーではなくてデザインの版権期間が終了したものなので違法性はない。
もっと言えば「意匠権が無いデザインなので誰でも使える」とも言えるか。
しかし、アノニマスなプロダクトなら兎も角、個人デザイナーの『作品』へのリスペクトが希薄である。
サイトの上品さや清潔さを透かして逞しい商魂がより大きく見えてくる。

そのままページを閉じた。


時代を振り返れば、版権期間中には似て非なるコピーは多く出る。それとこれとを同一に比べるものでもないとも思うが……。
良く言えば『似て非なるデザイン』は、その時代の様式へ発展する可能性があるムーブメントでもある。
しかし、ジェネリック家具には工夫する気すら無いように見られる。言い切れば『ただ乗りデザイン』である。しかし違法ではない。
いずれ世界を席捲するネズミのデザインも……。

繰り返すと、ジェネリックは悪いわけではない。
ただ、リスペクト以上に商魂を隠して上品ぶるから、くぁwせdrftgyふじこlpうわっ、やめっ……
もし、こういう販売がきっかけでミッドセンチュリーブームの再々ブームが到来したら、是非『ジェネリック・ミッド・センチュリー』と名づけて頂きたい。

まぁ、でもね、ジェネリックの製作側・購入者側の双方の気持ちは判らなくもない。
だって、同じ価格なら良いデザインのモノが欲しいし。100円均一ショップでもデザインの良し悪しで買う時代なんだし。


町内の公共物でお気に入りの物件がある。
常々「我が町内のミッド・センチュリー・モダン・デザイン」と思ってる古い街灯。


他にあるものに付いている商店の看板から推測すると、恐らく設置されたのは本当にミッドセンチュリーの頃か、その後だろう。
重ねる形、シンプルな構成、表面の加工技術、プラスチック素材などに時代の雰囲気が出ている。
しかし、いずれLED照明と取替えになるかも知れない……不要になったら欲しいなぁ。


このデザインが、オリジナルなのか、似て非なるなのか、ジェネリックなのか……は置いといて、気に入ってるのは確か。


閑話休題。


翻って我々の業界。
日本には昔から『本歌取り』や『写し』という表現方法がある。
現代では、桃山や江戸時代の『写し』は多い。時代が下がれば『個人作家のあの形』が定番化している事もある。
その製作現場にはリスペクトがある筈だ。
「しかし、これらは油断するとジェネリックになってしまうのではないか。そうならない為には……。いや、ジェネリックは悪いわけではないとすると……」

暫く『写しとジェネリックについて』一考してみようか。


まぁ、願わくば、写されたりコピーされる本歌の側になりたいな。















アート多しの季節

2014-11-18 17:00:00 | 路上観察


配達があって岡山市内へ。
最近は真面目に仕事場に引き篭もっているので、久しぶりの外出である。街中ファッションの季節感が判らないなぁ。
「今日、なに着て生きていこうか」

配達が終わって「そうそう、あれが始まってったけ」と思い出す。県立美術館へ。
もう10年以上出品してなくて、関係各位からの御指導御鞭撻御叱責もあり「そろそろちゃんとせなな」と思っていたところ。思い出したのも何かの縁であるな。いや、我が業界の事だ。縁はあり過ぎる。
二階の別会場では大抵は常設展ぐらいなんだけど、今回は企画展。「これも縁かな」と思ってついでに覗くと、これが良かった。
作品から発せられる湿気の高い想念にあてられたけれど。


そのまま美術館から外へ。
「ここまで来たらアレコレ見て行こう」と思い立つ。


美術館の外壁を見上げると。「!」


前には無かったなぁ。これはもしや現代美術ってやつですか?

その先にも、工事現場の塀を覆うポスター。


前には無かったなぁ。これはもしや現代美術ってやつですか?


あちこちにポスターが貼ってあって、「街が美術館となり、散歩がアートとの出会いになる。」「Imagineering」とか書いてある。
「あぁ、そうだアレが始まってたんだった」と思い出す。
俄かにイベント規模を思い起こすと「今からじゃ全部は廻れないな」と気付いたので、あとは別の機会に。ウチからでは散歩圏内じゃないし。

街中にある『それらしきもの』を見つつ移動する。

あとから「あぁ、あれは作品だったのか」と気付くのも心の引っ掛かりとしてのアートだろう。

う~~ん。心に引っ掛かる。


前には無かったなぁ。これはトマソンですな。こういうの好き。(でも阿部定物件やな……)


秋は本当にイベントが多いなぁ。

さてさて、小生は来年の仕込みをしなければ……。
今は、独りでアウトプットの時期。それなりに楽しくもあるか。

また、引き篭もります。(*^o^*)/
























豆シーズン終了

2014-11-12 11:05:29 | 料理・食材


先日、ほぼ同じタイミングで豆を頂きました。

ひとつは、落花生。
父上の畠のもの。たまたまタイミング良くいらした伯父様と一緒に収穫作業する。本来は砂地が良いらしいが「ここの畠は粘土質やからなぁ」との仰せ。
「なるほど、フムフム(よく判らんが……)」

差し向かいで掘りながら戦時中から戦後の食糧不足の頃にあった落花生にまつわる話をお伺い。
曰く「子供達が掘り残しを探ってオヤツにした」とか「こういうのが美味しい」とか「それは虫喰い」とか色々。
特に食べ方においては「塩茹でが一番」と強く力説されました。

「うん、知ってる。食べたことあるよ」と返答するものの、如何に美味しかったかを御高説、再三。
本当に美味しかったんだろうねぇ。これは世代の価値観なので、我々は何も申し上げようもない。

で、
「はいはい、もう塩茹でします」「いや、もう…それ以外はしませんから」と誓わされそうな勢い。

帰宅して、塩茹で。殻が厚い所為か時間が掛かる。かれこれ30分ぐらい。
モキュモキュして美味しい。



もうひとつは黒豆の枝豆。
近隣のお客様からの頂きもの。これ自体は珍しくは無いのだけれど、曰く「莢が黄色くなりかけた頃が美味しいねんで、ホラ」と。
「ほほう」
莢が黄色くなりかけの株を頂きました。

で、これを茹でると「黒豆とは斯くの如く」というぐらい黒い。「なるほど。フムフム(一目瞭然)」
豆を包む薄皮も硬くなって口に触るので、それを剥かねばならない。莢を剥いて薄皮を剥いてという二度手間の枝豆。
しっかり味が濃い気がするな。もっとも、父上は「枝豆は薄皮まで剥くほうが旨い」と力説するのであるが……。
ホクホクして美味しい。


美味しい。しかし、それぞれの難点といえば……。
掘りたての落花生の塩茹では、茹でるのに時間がかかる。

大豆になる数歩手前の枝豆は、剥くのに時間がかかる


美味しいものを求めると楽は出来ないって事ね。

さてさて、また来年のお楽しみ~~として、これにて今期の豆シーズンは終了しました。


乙。







今日はブラームスから

2014-11-07 22:31:53 | Weblog


朝、子供達は学校へ。番犬福助は朝御飯。ルーチンワークを片付けつつ、朝の冷気に一際季節の変化を感じる。
一日の寒暖差や、釣瓶落としの夕暮れに戸惑う季節でもある。

あれほど勢いのあった夏草も今は成長を止め静けさの中。
刈り残した叢の混成具合を見ていると、活花のような趣きもあるなぁ。感傷的に過ぎるか……。
有体に言えば、コムラサキシキブにエビヅルなどの蔓性の草が絡みつき、傍にススキが立っている光景である。
距離感のない青空にジョウビタキの甲高い声が響く。ひんやりとした空気が心地良い。ずっと深呼吸をし続けたい気分。(←過呼吸になるよ)

アースカラーを眺めつつ、コーヒー片手にしばし。「いいねぇ」
近くに遠くに目を移す。



今年の初嵐は花付きが良いなぁ。


朝のサンシュユも艶やか。

朝露と霧が作る片隅の風景。
何となく「今日の始まりはブラームスからにしよう」と思いを定める。


日本は湿潤の国。その気候の中で綺麗に見える自然の色は自ずとある。
春の霞、梅雨の窓越し、夏の陽炎、真夏の入道雲、晩夏の夕立、初秋の朝露、晩秋の鰯雲、初冬の川霧、冬の霜柱。
おぼろげな景色、メランコリックな雨、遠い記憶の地面、遊びまわった海、蝉の声、濡れた草の香り、蜻蛉の群れ、凛とした冷気、透明感ある朝の通学路。

湿気と風景の記憶は直ぐに結びつく。そして、それぞれに美しさと儚さを持つ。
山は笑い、滴り、装い、眠る。


その中でも秋は格別。そして秋はブラームスが似合うと思う。

霧の如く変幻していく主題は、日本人の無常観に沿うのだろうか。
愁いを帯びる響きは、湿潤の記憶を誘うのだろうか。
あるいは情緒的にあるときでも、論理性を崩さない真面目さが気質に合うのか。

「何となくブラームス」の理由はそのあたりなのかも……。


由無し事を思いながら、今日の始まりの一曲へ想いを廻らす。「まずは弦楽から始めてシンフォーニーへの流れだろうな」
穏やかな気持ちの変化を意識から少し切り離してフワフワと遊ぶ如く。
取りとめない緩さで曲を選びつつ、仕事へと気持ちを徐々に切り替えていく時間でもある。

さて、その視野の端に番犬福助くんが。
「頂くものは頂きましたよ」って顔をして伏せているが、横目でこちらをチラチラと見るのは「何か素敵なものが来ないかしら?」という期待に違いない。


大音量でブラームスをたっぷり聞かせてやんよ。 Ψ(`∀´)Ψ


ロクロ座からの風景もまた良し。
















越冬準備

2014-11-04 13:17:31 | Weblog


一昨年前。細君がグリーンカーテンを目的に仕事場の前に植えたパッションフルーツ。

「ゴーヤも飽きたし、花がエキセントリックで楽しそうやから今回はこれを植えても良い?」との事だったかな。
小生は「喰えるなら良いよ」の返事だったはず。新しいチャレンジだな。

植えると勢い良く成長した。まさに伸ばしたい放題。
しかし、蔓を切り戻さないと花が咲かないことを知らなかった。いつまでも葉っぱだけ……。そして夏が終わる。
秋以降は気温が10℃を下回ると枯れてしまう為、株を室内で越冬させた。再チャレンジだ。(そのときの記事

室内でグリーンカーテンが出来るほど伸びたので、冬の間に2回剪定。
そして、今年の夏。蔓は切ったし花を大いに期待する。「展覧会の会期に合えば良いな~~」
しかし、どうやら切り戻しすぎて花芽も切ったのか……いや、外に出したのが遅かったのか……花が咲かなかった。

こうなったら更に来年を期待。再々チャレンジだ。
昨年同様、プランターごと入る衣装ケースを用意して室内へ移動。これで水遣りしても漏れる事が無い安心設計である。偶然の寸法だけど。

これが今。


しかし、植えた当の本人(細君)は「もう見切った。知らん!」との事で放置状態。
一方、お気に入りのシャコバサボテンは仕事場の日当たりの良いところに早々と移動済みであったけれど。


う~~む、こやつの面倒を見なイカンのか……。

「ぜったい世話するからっ! 飼ってもいい?」って、子供が言いがちな台詞を思い起こすなぁ。


さて、来年……花が咲くか? 

「未だ自信なし」であるが。さてさて。