1週間前ほどにadslモデムの電源が入らなくなりました。よって、ネットから孤立しています。その後、モデム変更、LANケーブル入れ替えを行いましたが、ダメ。後は、LANボード入れ替えをする予定ですが、もし、それでも直らなければ、入院させようかと思っています。
不便極まりない状態なのですが、忙しいので、その為の時間がなかなか割けません……。
不便さと時間とのバランス次第で、いつ直るか……という感じです。
気持ちとしてはすぐ直したいのですが……。
農家の方々はここのところ忙しそう。田んぼの整備や畦の修理をしている。平行して、苗の準備を始めた。
上の池から水を引く為に、共同で池の土手の草刈りをする。対象は、農家の方々だけなので、ウチは参加しない。この草刈りをもって、いよいよ夏の始まりとなる。
ただ、通り道に面した法面の草刈りを、決められた期日までにキチンとしておかなければならない。この『キチンと…』が重要で、限りなく更地に近い状態にしなければ、農家の眼からは草刈り終了とみなされない。
今、咲いている十二単(ジュウニヒトエ)や立浪草(タツナミソウ)がいくらキレイでも、刈ってしまう。これらの雑草とひとくくりにされた野の花を見栄え良く、繁殖させられたら良いのだけれども、それだけの園芸の技量が無い。内心、残念な気持ちで、化石燃料を燃やしつつの草刈りとなる。これもまた残念。
実際、家の周りに雑草があると、ヘビや害虫を見つけにくくなるし……安全の為には必要な事ではあるのだけれど…。
さて、とりあえず草は刈った。法面の日当たりが変わるので、植生が一気に変わる。これから、どの種類が優位に繁殖するだろうか。
野草のバトルロワイヤルの始まり。
すっかり夏を思わせる陽気になった。
工芸の分野では、桐は身近なもの。我々焼物屋も桐箱をオーダーして作ることが多い。箱の格はもちろんの事、材料のランク、蓋の仕様もイロイロとあり、ご予算に応じて作って頂く。近年は、中国桐、台湾桐が多く出回っている。安いが粗い。
それでも時々、「これはっ!」という実に丁寧な仕事の箱を作ってこられる方がいらっしゃいます。そして箱書きを依頼されるのだけれど……、ゆっくりと墨を摺って……、その箱を見ているうちに、ドンドン、プレッシャーがかかって……、いざ筆を持つ頃には、すっかり緊張している。
良すぎる箱は、よろしくない……。でも書きやすさは格別。
裏山に傾いて曲がっているけれど桐の大木がある。製材しても結構なサイズと量が取れるだろう。
土地の所有者のご先祖さんが植えたのだろうけれど、その頃と時代が違ってきている。今のお嬢さんがおヨメにいく時にも伐る事は無いだろう。
「木には伐りごろがある。」と近所の山師の人が言ってたけれど、この木には違う役目があるのかもしれないな。
梢の先に楚々としたユリのような花。青空に溶け込みそうな淡い紫。
近々、初夏の風に その花を地面に撒くだろう。
つい数年前まで、備前の中心地、伊部では食器は「雑器」といわれて、「メイン以外のその他」という意識のカテゴリーがあった様に感じます。
しかし、その風潮の中でも、真剣に食器作りに向き合う方々がいらっしゃいました。
小生は、最初から食器志向が強かったので、弟子の頃は、アッチコッチお邪魔して様々なことを学ばせていただきました。保管してある粘土クズを見てその残骸から、消えたパーツを想像して作り方や手順を学んだものです。
そして、小生の師匠は備前流以外にも精通しているので、様々な技法を目の当たりに出来、本当に勉強になりました。
「何を学んだか」を忘れないのは当然として、「誰から学んだか」も忘れないようにしています。それが、小生流の感謝のあらわし方です。
さて、石膏型で食器を作るということは、実は備前では未だに少数派です。もちろん、細工物の歴史がありますから型抜き技術には高いものがある産地です。それでも食器となると……。
『型』には型作り、成形……と、それぞれポイントがあります。同じ型で成形しても人によって微妙に仕上がりが異なります。まして、オリジナルの型ではなお更です。
弟子時代に学んだ技法、プラス、自分で工夫した技法で……、揺らぎのある口作りの『ひねり輪花鉢』。
型を使う理由は、「その表現が型でしか出来ないから。」に尽きます。
ざっくりとした土の質感に、軽快感を感じる爽やかな緋色。
フレッシュなグリーンサラダが映える……『ハズ』。
「人柄が作風にあらわれる。」とはよく言われることですが……。
『 普段の食生活が食器作りにあらわれる 』(あっ、言っちゃった。)
昔の日本人の生活スタイルは床や畳に座ったりすることが多かった。箱膳などに食器を載せていたけれども、やはりどうしても上から俯瞰してモノを見る。対して壁面に対しては見上げるという生活。
現代はテーブルに椅子の生活スタイルが多くなったので、おのずと身のこなし方、モノの見方が変化していると思う。
加えて、体格の変化もある。現代人は江戸時代の頃の人に対しては、大きいけれど、中世の人に比べると小さい。これらは什器、道具、服飾に変化をもたらす。食器を時代ごとに比較していくとその辺りの変遷が見られる。
日常生活が人のモノの見方、見え方を強く規定していくので、個人の範疇だけでなく、世の中全体の志向性が時代ごとに変化していく。それが文化の流れ。
これらの事に対して、どう考えてモノを作るかという思考が『モノ作り(クラフトマン)』には必要なのだろう。『意識して作る』と『出来ちゃった』とは違うのからね。
と言っても、やはり個人の生活スタイルが強く作風にあらわれる。これも個性のファクター。特に『食器屋さん』は、意識的な食生活をしないと……。
なかなか、思い通りにはならないけれど……。それもまた、流れの中か。
うだうだ書きながらも、結局は「食べたいモノを如何に載せるか」という点に集約される。
そろそろ暑くなってきた。
『タコとセロリの冷製カッペリーニ』なんていいなぁ~。と思って、お皿を作る。
お皿のリムに波紋をめぐらせて、涼しげ~に。
実際は、素麺各種を箱買いしてきたウチの細君。おぉ~日本の誇るカッペリーニじゃん。
これもまた、流れの中か……。