備前焼 やきもん屋 

備前焼・陶芸家の渡邊琢磨(わたなべたくま)です。陶芸、料理、音楽、路上観察……やきもん屋的発想のつれづれです。

匣鉢

2009-01-28 11:00:10 | 陶芸
『匣鉢=はこ・はち』と書いて『サヤ』と読む。他の窯業地では『エンゴロ』とも言う。焼成時に素地を保護する『箱』の事。

匣鉢自体は、現在でもかなり広く使われていて、先端工業であるタイルやセラミック電子部品を焼く為にも使われる。そのため匣鉢を専門に作る特殊先端企業も多い。その使用目的のほとんどは、還元酸化の雰囲気や、熱源の影響、温度差など焼成でのマイナス要素を排除する為に使われている。

焼物屋では、積み上げて焼成スペースの確保の為や、釉薬、絵付けの保護の為に使ったりしてきた伝統的な窯道具のひとつ。
昔の備前では、棚板や棚足がなかったので、窯詰め効率化や、献上手の高級品を焼く為の道具として発達してきた。火の通りを考慮して、側面に穴を刳り貫いた匣鉢も多く出土している。この匣鉢自体が古備前という面白さ。


現在の備前焼の場合、これが無いと出来ない事が色々とある。
連房式登窯の『青備前』などはその例。サンギリの取れる場所でも匣鉢の中に入れてあれば全体を青備前に出来る。…となると備前焼の匣鉢は、素地の保護というよりも、発色を変化させる為の箱ともいえる。

では、窖窯(あながま)の場合はどうか。
基本的に『自然釉が付着するのを避ける』為。あと発展的に『ヒダスキをとる』とか、『白を求めて』とか、『火を走らせる』とか。

つまり、備前焼の匣鉢とは、登窯でも窖窯でも置く場所によって、ひとつひとつが小さな窯の役割をするものと言える。この辺りが他の窯業地と考え方を異にする。
マイナス面の排除ではなく、より積極的に使うという考え方。


さて先日、信楽土を入手。火前で使っても良いのだけれど、今回は窯道具として使う。ちょうど、匣鉢が無かったので自作。

匣鉢は、その材質の違いで結果(発色)が異なるとされていて、古備前を目指す方々は「共土(素地と同じ土)でなければ…」との仰せ。材料入手の難易の問題ではなく、あくまでも結果として。
もっとも小生の場合は、素地同士をスタッキングして窯詰めするので、それぞれが小さな『共匣鉢』となっている訳だが…。


今回の土は、共土ではない。親戚ぐらいの距離感。
マグマ出身の母岩(親)が火成岩の兄弟で、その風化物としての粘土(子供)は違う場所で育ち、違いがひと目で判るけど、良く見たら似てる程度。って、意味が伝わるかなぁ。


備前と信楽。
「共土とは言わないが、何か違いがあるかも」という気持ちで。
あまりこだわった実験では無いけれど、横目でチラッと見ておくぐらいの必要はあるかも知れない。

とにかく、やるべし。


白いたいやき

2009-01-24 21:47:10 | 料理・食材
最近、ちょくちょく鯛焼きの話を聞く。
「何処其処に店が出来た」とか「変わったのがあった」とか……。あまり興味の無い分野だけれど、話題に上がる頻度が高くなると、自然と気に掛けるようになる。
「鯛焼きが出来て100周年」とも聞くと、もう立派な日本の誇れるスイーツなのかとも思ったり。

先日、冷凍状態の鯛焼きを頂き、そのまま冷凍庫に直行していて失念していた。本日めでたく発掘する。数が減っている。既に家人が頂いたらしい。最後の一匹。

見ると巷の噂に聞く『白いたいやき』。いずこの店のものかは知らないけれど。夙川の店とだけ聞いた。

皮は「求肥か白玉か」と言うぐらいモチモチとしている。中は小豆餡。鯛焼きというよりは、大福の如し。慌てて喉に詰まらせない様に注意が必要な程。
この白さと食感は、キャッサバ粉(タピオカ)を混ぜていると思われるけれど、上品な雰囲気でなかなか良い。コゲ臭さなど微塵も無い。脱B級グルメ志向なのかな。

ただ、冷凍していたモノを電子レンジで再加熱したので、この食感が目指しているものを再現したのかは不明。焼きたてはまた違うのかも知れない。


白があるなら赤もできるだろう。
「紅白の鯛焼きセットなら、尾頭付きの魚として御祝事にも使えるかも」と思いながら頂きました。
ごちそーさま。


窯掃除

2009-01-19 10:11:20 | 陶芸
窯掃除はやきもん屋稼業中2番目に嫌いな仕事。あれこれと理由をつけては先延ばしにしていたが、必要に迫られて…。

10月に窯焚きして以来、ほったらかしだった。山を削って窯を作ったので窯床が湿気を帯びている。灰などは湿気を吸っていて掃いても埃が立たない。衛生上、少しは良いか。「これからは窯焚き後、数ヶ月経ってからの窯掃除にしよう」とまた仕事の先延ばしの口実を発見。

窯道具として使っているレンガも掃除する。耐火レンガといえど何度も焼くと灰がつき溶着する。最終的には、チョコレートが掛かった様になるか、それまでに割れるか、割るか…となる。

初めて使ったレンガはまだ変化がおとなしい。中には緋色が発色し、自然サンギリが出たものもある。このようなモノを見ると「いいなぁ~」と思うのは、備前焼屋のサガ。

同じレンガでも緋色が出たり出なかったり、鉄粉が吹くようなものがあったり…と夾雑物の影響がある。このバラツキが、中国クオリティー。それ以前にサイズが違ったり、捻っていたり、硬度が違ったりする。流石、中国製。
まっ、気にしないけど…最低限、耐火度だけは信用させて欲しい。


耐火性といえば、建築で使われるヤキモノも多い。
古くは中国の万里の長城の『セン』。イスラムのモスクの『モザイクタイル』。ヨーロッパの『マジョリカタイル』。海を渡って、ニューヨークの摩天楼の『テラコッタ』張りの高層建築。それらが日本に入ってきて…。
火事になると石は割れるし、風化もするし…。耐火性、耐候性のみならず、造形のしやすさもメリットだっただろうし。
こう考えると「ヤキモノって凄いなぁ」と、一人暗い窯の中で、世界を鑑みる。


「大阪のテラコッタ建築を見に行ったりしたなぁ」とか、
「あの百貨店の化石は今もあるかなぁ」とか、発想が尽きない。

とにかく嫌々の仕事なので……脈絡の無いイメージの連鎖で気を紛らわせているという防衛機制。

棚板掃除もある……。
延べ、何日で終わるかな?



太陽の光

2009-01-15 15:44:04 | Weblog
ロクロ場は自然光が入るように窓際にある。晴れでも雨でも天気が安定していれば、補助として蛍光灯をつけると安定した光環境が得られる。色としての環境光は好みの問題。備前焼屋は○○ッ○が御用達。理由は…ナイショ。でも仕事場は関係ないか。

今日は一日、手元が急に暗くなったり、明るくなったりと変化が多かった。窓の外には大きな雲が切れ切れに浮かんでいる。雲の群れを、鰯雲、羊雲など色々と言うけれど、今日のは、クジラサイズ。でもクジラ雲とは、あまり言わないな。

小学校の教科書に『くじら雲』という話が載っていて、本読みの宿題で去年秋は散々聞かされた。一生懸命読んでいる我が子の横から「そんなヤツおらんやろ~」と突っ込みを入れると、顔を真っ赤にして怒っていたなぁ。


光が遮られると、急に冷え込むような気になる。太陽の暖かさは偉大だ。日食を恐れた古代の人もさりなん。
そういえば、今年は皆既日食が南の島(トカラ列島、屋久島、種子島・奄美大島の一部など)から見えるとかで、準備に大わらわとか。
部分食でも見忘れないように気をつけておこう。晴れたらいいね。


コロコロと変わる明るさにつられて、集中力が何処かに行ったので、しばし休憩。

『くじら雲』を見ながら、陽だまりでコーヒータイム。
 (外は寒そうなので、福助とは遊ばない。ゴメン。)

寒さ増します折…

2009-01-14 09:24:27 | Weblog
今週初めから冷え込みが強い。夜、就寝前に屋外の温度計を見ると-3℃だった。このところマイナス続き。

窓の外は一面の霜と霧氷。朝日に当たると水蒸気が立ち上がり、木立を縫っていく。良くしたもので、古くからあるお宅は朝日が早く当たり、ウチは集落では一番遅い。他所から上がる水蒸気を見て遅れる事、小一時間。やっと敷地の霜が融ける。

霜が融けた頃に、猟師さんがやってきてワナの見回り。裏山にイノシシの檻を設置している。
話を聞くと「今年はコンディションが良くない」との事。台風が来なかったので山のドングリが落ちなかったものの、ドングリそのものの数が少なかったとの事。よって、肉質は一段落ちるらしい。


更に今頃は、山に食べ物が少なくなってくる。

シカは木の皮を剥ぎ、イノシシは土手を掘り、サルは畑から盗む。
ボチボチ、近所のおばぁ様宅の大根がサルに狙われる時期だ。
ウチの軒先の干し柿も撤収して、サルに盗まれないように確保した。
お互いに世知辛いところではあるが、スマン。

いつの間にか、木守りの柿もなくなっている。

動物の皆様、山の寒さも増します折、ご自愛の程…。
(ウチのボンボンの福助は、夜は玄関の毛布の上で寝ている…。)


2009-01-10 20:22:28 | 陶芸
電柱を登ろうとするアイビー。結構茂ってきたので、刈り取り。この時期に剪定して良いのか…は問題でなく、気が向いただけ。

結構長くて、次々に引っ張り出していると、唐草模様のことが頭によぎる。先日から新しい透かし模様を考えていたから頭によぎったのだろうけれど…。世界を横断してバリエーションがある模様。「自分の唐草模様を作ろう」。

こうなると折角始めた作業もそっちのけで、左手に蔓、右手に鉛筆を持って図案化作業へとお流れ。描き出すと在来の唐草模様が気になって参考資料を引っ張り出す。たちまち仕事場にいろんなものが散乱し、鉛筆はどこかへ行き、本を読みふけり出す。取り留めない読書に日暮れの気配を感じて、再び気を取り直し、鉛筆も取り直し作業再開。
『模様から模様を作らず』の心意気で…。

出来上がってみると、唐草と言うよりも草文という方が的確なデザインに。

何故、唐草が草文となるのか。

自分の性格と仕事ぶりを考えてみる。
精密な計算とパターン化されたデザインも悪く無いけれど、自分で作るのはそうでないものが多いという事。ライブ感と再現性の狭間での精度や、少しピンボケも含まれるニュアンス。そんな感覚の仕事が多いしむしろ好き。
(磁器の人から見ると精密さは欠けるけれど、備前焼の人から見ると結構精密な方だと思っているけどね)

同じ楽譜の演奏でも、奏者によって表現が異なるという差。
同じ落語の演目でも、演者によって笑いが異なるという差。
それを楽しむ事が好きという事が、同じ事を繰り返しても、いつも違うという結果を生むのだろう。
これが繰り返し模様の唐草を続けられない理由か。または、まだ自分が唐草模様を欲していないのかも知れない。



『工芸にライブ感を持ち込む感覚』って逃げなのか攻めなのか。
逃げとすれば、緩さ、甘さ、鷹揚さ…
攻めとすれば、発展性、創造性、表現・技法の進歩…


自分の中で『差』を感じていることは大事なんだと思う。

それが『唐草なのか草文なのか』の差ではなく、
自分の『やりたい事と出来ている事』の差を見るということ。


片手に蔓一本持って、言い訳がましく青臭い事を考えてしまったなぁ。
今日はそういう日なんだろう…。

メランコリックな曇り空がそうさせているのかもしれない。




吉永の牛神さま

2009-01-05 11:21:58 | Weblog
所用にて家族でウロウロした(ついでと言っては叱られるが)近郊の神社へ初詣に行く。余りそういう信仰心が無いけれど『厄』という事で周りが気を使ってくれるので、ムゲにも出来ず…。
備前市(旧吉永町)の『田倉牛神社(たくらうしがみしゃ)』へ。初めて。
今年は丑年なので、リマインド効果か参拝者も多いのかも知れない。かくいう我々もそのうちだが。

この神社は拝殿も鈴も無い。急な階段を上がりきった所にご神体の牛の像があり、それを囲むように備前焼の小さな牛が山と積んである。神社らしい設えは、鳥居と賽銭箱ぐらい。
参拝方法が独特で、備前焼の牛を参道で買い求めてお供えし、代わりにお供えの山から『今年の一頭』を連れ帰る。翌年には、また牛を買い求めて、家にあったものと合わせてお返しするシステム。倍返しなので牛は増える一方。なので山となる。


さて、持ち帰る牛は気に入った物にしたいのが人情。鉄柵の間から手を突っ込んで、届く範囲でお気に入りを探す。形、焼けがそれぞれ違っているし、結構欠けていたりして無傷のお気に入りを探すのには一苦労する。
人によっては、買ったものをしばらく中に入れて、そのままお持ち帰りする人も。気持ちは判らなくも無いが……。

流石に備前に近いので参拝者の備前焼講釈が色々と聞こえてくる。
その熱意で是非、地場産業を更に盛り上げていただきたいものです。

「本年もよろしく」と知らない講釈師に、心の内でお願いして下山。