巣窟日誌

お仕事と研究と私的出来事

「病院の子」

2010-06-27 15:29:00 | 日記・エッセイ・コラム
大昔の話だ。

◆ ◆ ◆


M子ちゃんは、「病院の子」だった。わたしが母にそう説明したらしい。「M子ちゃんはねぇ、『病院の子』なんだって。」

わたしが重症の気管支喘息のために入院したその病院で、M子ちゃんは生まれた時からそのときまでずっと過ごしてきたのだった。わたしと同い年で、だから本当だったら4歳のわたしと同じ病室にいるはずだったが、わたしたちの病室のとなりにある、もっと小さい子どもたちのための病室に入っていた。なんでも、ずっとその病室にいたからだということだった。

M子ちゃんの病気がどんなものだったのか、わたしは知らない。知っているのは、M子ちゃんの体の片側全体が、ゆがんでいたことだ。入院中のわが子の見舞いに訪れM子ちゃんを初めて見たおとなたちは、皆ぎょっとして顔をしかめ、あるいは目をそむけた。「ああいう子をいつまでも置いといても良いものでしょうかねぇ」とささやく声もあった。

が、入院している子供たちにとって、M子ちゃんの外見は単なる事実のひとつでしかなかった。「M子ちゃんはねぇ、生まれつきああなのよ。だから病院にいるんだって。看護婦さんがそういってたのよ。」見舞いに来た母や叔母たちに、わたしは「そんなの当たり前でしょ」といった表情で、そう説明したらしい。結局のところ、わたしたちは皆、どこか具合が悪いからそこにいるのだった。しかも、たいていの子の病状は、自分たちが住んでいる地元の病院ではなくわざわざ都内にある国立病院に入院させなければならないほど、深刻だった。

M子ちゃんは、いつもは自分の病室にいた。けれど、面会日におとなたちがわが子の見舞いに訪れるたびに、子どもたちが入院しているいくつかの病室を、出たり入ったりするのだった。

長く入院している他の子どもの母親からわたしの母が聞いたところによると、M子ちゃん自身の家族がM子ちゃんのもとを訪れたことは、いまだかつてなかった。そんなM子ちゃんを不憫に思い、M子ちゃんをかわいがっている看護婦さんもいた。が、小児病棟の看護婦さんは入院している子ども全員の面倒を見なければならず、自分の子どもにだけ愛を注ぐ親の代わりにはなれないのだった。あのぐらいの子どもは、自分を他の子供より優先してくれて、自分が独占できるおとなの存在が必要なのだろう。面会日のたびに、M子ちゃんは親恋しさに、小児病棟の複数の病室をうろうろするのだった。それで時には、じゃまもの扱いされたり、ちょっとしたトラブルになったこともあったらしい。

ある面会日のことだった。その日は台風の影響で天気が悪く、子どもたちも看護婦さんたちも朝から「今日はだれも来ないかもかもしれないね」と言っていた。しかし、ほかの子どもの親たちが台風で諦めたなか、唯一23区内住んでいたわたしの母だけがやって来ることができた。

あのとき母とわたしがどんな話をしていたのかは覚えていない。覚えているのは、母とわたしがわたしのベッドの近くで話をしていた時に、隣の病室のM子ちゃんが、いつのまにかわたしたちの病室の中にいてじっと立っていたことだ。そこに立って、黙って、母とわたしの話をじっと聞いていた。

「こっちを見ないで」とは言えなかった。なぜならばM子ちゃんは母もわたしも見ずに、うつむいていたのだから。「こっちに来ないで」とか「近づかないで」とも言えなかった。M子ちゃんが立っているところは、それほどわたしたちから近い距離ではなかったからだ。とはいえ、無視できるほど離れた距離でもなかった。

M子ちゃんがそこに立っていることに対して、どうしたらいいのかわからなったわたしは、黙ってしまった。母も同じような気持ちだったらしい。母とわたしは、しばらくその場でしゃべることも動くこともできずに呆然としていた。

結局、その様子を看護婦さんの一人が見て、「M子ちゃん、こっちへいらっしゃい」とM子ちゃんをわたしたちの部屋から連れ出すまで、わたしたちは黙ったままだった。

◆ ◆ ◆


わたしの数回にわたる長期の入院は、その後は頻繁な通院になり、さらには数週間に一度の定期的な通院に変わった。通院中に、小児科病棟の待合室で、入院中に知り合った子どもたちのうちの二人に会うことができた。お互いに退院できたことを相手の親御さんともども喜びあったが、おそらく自分たちだけが健康になりつつあったことに対する後ろめたさもあったのだと思う。いまだ退院できない子どもたちのことは、だれも話題にしなかった。だから、その後、M子ちゃんがどうなったのかは知らない。

おとなになってから、全く別の病気でこの病院にお世話になったことがあった。小児科の入院病棟があったあの薄暗い古い建物はすでに取り壊されて、新しい外来棟になっており、子どものわたしが入院していた当時の病院の面影はもはや残ってはいなかった。

そこでわたしは、当時のことをできる限り思い出そうとした。戦前は陸軍病院だったその病院の病棟の作りはどうなっていたのか。どの子がどのような病気で入院していたのか。病室にはどのような本が置かれていたのか。食事には何が出たのか、など、いろいろと思い出そうと努力し、母にも当時のことをいろいろ聞いてみた。そうした中で、面会日に他の子どもたちが、「なんで見てるんだよ」とか「あたしのおかあさんなんだから」と、M子ちゃんに言っていたことがあったことを思い出した。

では、あの台風の面会日に、まさにあの位置にあんな風にM子ちゃんが立っていたのは、子供ながらに精一杯の知恵を働かせた結果だったに違いない。「みるな」と言われたことがあるので、こちらを見ないようにしていたのだろう。「近づくな」と言われたことがあるので、あまり近づきすぎないようにしていたのだろう。面会日のたびにM子ちゃんがどんな思いをしていたのか。それを考えると今でも胸が痛くなる。面会日に無邪気に母に甘えていたわたしは、知らないうちにM子ちゃんには残酷なことをしてしまっていたのに違いない。

◆ ◆ ◆


いまでも、あの病棟の夢を見ることがある。

夢の中では、わたしはすでに今のわたしだ。とっくに取り壊されていたはずのあの重厚なつくりの病棟は、使われてはいないが取り壊されずにそのまま残っている。

無人の廃墟と化した薄暗い病棟を歩き回り、わたしはM子ちゃんともう一人気になっている子どものその後の手がかりを、なんでもよいから探そうとしている。入院していたことがわかるものはないか、カルテの切れ端は残っていないか、もしやM子ちゃんが壁に落書きかなにかを残していっていないか。

なぜM子ちゃんたちを探さなければいけないのかはわからないが、夢の中ではとにかく探さなければいけないのだと思っている。だが、結局はなにもみつからず焦っている。どうしたらよいのかわからなくなって、泣きたい気分になっているところで、わたしは目を覚ます。目覚めたときに、わたしはたいてい涙を流している。

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今朝がたもこの夢を見たので、記しておく。

ちなみにその病院では、小児科の入院病棟の後に建てられた外来棟もすでに取り壊されており、その位置には今は新棟を建設中らしい。

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