巣窟日誌

お仕事と研究と私的出来事

アーサー・C・クラーク氏が死去

2008-03-19 23:28:33 | ニュース
「2001年宇宙の旅」アーサー・C・クラーク氏が死去
2008.03.19 [読売新聞]

彼はもっと長生きをし、彼が生きているうちに、宇宙人が彼を表敬訪問するんだろうと思っていた…

実はクラークの名前をきちんと知ったのは、小学校の高学年か中学の1年のときの国語の教科書を通じてだったと思う。クラークの発案による静止衛星による衛星放送の概念を説明する文章の中のことで、クラーク本人が書いたものの翻訳か、それとも文章の書き手がクラークの静止衛星の概念を引用したものかは覚えていないが、そこで初めてアーサー・チャールズ・クラークという、頭の良いSF作家でもある人物の存在を知ったのだ。

もちろんそれまで、クラークという有名なSF作家が海外にいることは知っていたが、それは静止衛星のクラークとはその時点では結びつかなかった。

さて、文部省特選映画の『2001年宇宙の旅』を映画館で何度も見たわたしだけれど、実はわたしが最も好きなクラークのSFは『2001年宇宙の旅』(1968)でも、そのもととなった『前哨』(1948)でもなく、高校1年の時に読んだ福島正実訳のハヤカワ文庫の(初版の)『幼年期の終わり』("Childhood’s End" (1953)) だ。西洋人でもこんな物語が書けるものなか、と、衝撃を受けたものだった。

なぜ「西洋人でもこんな物語が書けるのか」と思ったかというと、どことなく東洋哲学に通じる雰囲気をもっている作品だと感じたからだ。当時のわたしは浄土宗系の女子高に通っていて、宗教の授業でいろいろな知識が入ってきたので、よけいにそう感じたのかもしれない。(ちなみに、幼稚園は曹洞宗)

が、当時クラスメートに、SFが好きな人はいなかった。なので、この『幼年期の終わり』の感動は誰にも語れなかった。大学もおとなしい女の子が集まる女子大の英文科とくれば、SFマニアは表立っては存在しない。ここでも、SFを語る友は存在しなかった。

ところがこともあろうに「英米文学概論」という英文学科必修の授業の中で、この作品が使われた。担当の先生は、エズラ・パウンドやらT.S.エリオットやらを論じるのと同じレベルで、"Childhood’s End" の原文を俎上にのせた。もうびっくりした。大学の先生というものを見直した瞬間だった。で、先生の解説で原文を読んでいって、読み進めていくうちに不覚にも落涙。とても美しくて理知的で、西洋的でありながら東洋的で、しかもなんだかとてもすさまじかったんだもの。(その原文は第三部の「最後の世代」のある部分だ。)

ハヤカワ文庫の初版は、本を9割以上処分した今も手元にある。これを久しぶりに読み返そうか。それとも、原書を読んだほうがいいだろうか…


「田中昭」の転記ミス:固有名詞はノンネイティブには難しすぎる

2008-01-31 19:19:50 | ニュース
年金問題:転記作業、外国人がミス連発 50人の派遣打ち切り

 コンピューターに未入力の古い厚生年金記録1430万件などの手書き台帳からの書き写し作業で、昨年12月に派遣会社から派遣された中国籍などの外国人約50人がミスを連発し、社保庁が途中で全員の作業を打ち切ったことが分かった。
毎日新聞 2008年1月31日 東京朝刊


何かと「中国もの」が批判される今。たしかに冷凍食品の農薬はいたってまずい。怖くなってわたしも、ストックしてある冷凍食品を全部チェックしてしまった。

しかし、今回のこの転記ミスに関しては、働いていた中国人を含む外国人の問題ではなく、彼らを派遣してしまった派遣会社側が悪い。誰が外国人の派遣にゴーサインを出したのかは知らないが、とにかくこの担当者は、「名前を含む固有名詞は、言語に対する強い母国語感覚とその母国語を使う環境に長年身を置いた経験がないと、なかなか正しく識別できない」ということまで、考えがいたらなかったのだろう。担当者にそのように思いをめぐらせるだけの能力があり、かつ実際にはそう判断する余裕がなかったり、担当者レベルではわかっていてもどうしようもなかったのだとしたら、これは派遣会社の体制ややり方に問題があることになる。

さて、「言語に対する強い母国語感覚とその母国語を使う環境に長年身を置いた経験」と書いたが、まずは後者の「母国語を使う環境に長年身を置いた経験」とはどういうことかというと、子供のころから知り合いになったり、または名簿などを通じて知る人の名前のほかに、たとえば:

「すみません。この担当者って『コハラさん』? 『オハラさん』? 『オバラさん 』?」
「ハットリです。『フクベ(服部)』のほうではなくて、漢数字の『八』に鳥取の『取』と書きます」

というようなやりとりによる経験等のことだ。こうして、頭の中にものすごい数の名前がストックされる。そのストックは頭の中でデータベースされていなかったとしても、わたしたちは過去に蓄積した知識や経験をもとに、総合的に判断できる。

だが、こういうことは日本語がネイティブでない人間には至難の業だ。それを考えずに外国人を送ってしまったほうが悪い。というわけで、派遣された外国人は正当な報酬を派遣会社から受け取る権利があるのである。社保庁がフルキャストに支払うべきかどうかは、また別の話だ。なにしろ、国民の税金だぜ。

わたしが「固有名詞の識別はノンネイティブには難しい」とかなり強く信じているのは、過去に起きたある出来事をいまも良く覚えているためだ。

昔、派遣でお世話になった米国系の会社の話だが、そこでは日系ブラジル人が正社員で3名働いていた。母国に帰れば彼らはエリートの部類に属し、そして日本語はプライベートでもビジネスでもペラペラ。もちろんそれなりに日本語のビジネス文書も書けた。

そのうちの一人がわたしと働くこととなった。わたしが配属された部署は、この部署だけで顧客データベースを作ろうとしていた。なぜかというと、企業全体がグローバルにあるERPを導入していたのだが、日本側から見るとどうも本社の設定した入力項目だけでは、日本のきめの細かい顧客管理事情には合わなかったからだ。しかし、本社は「日本側だけで勝手なことをやってもらっては困る」と、多少の変更ですら嫌った。そこでここからCSV形式でデータをもらい、それを元に4th Dimensionで「使える」顧客管理データベースを構築しようとしていたのだ。

このプロジェクトには、データベースに明るい日系ブラジル人のA君に白羽の矢が立つことになった。だが彼は他はまったく問題がないのに、データ内の固有名詞で引っかかってしまった。元のERPソフトの日本語で入力されていた「住所欄」と「氏名欄」(企業名、部署名、担当者名等)には、読み仮名は入力されなかったためだ。日本語の場合固有名詞に「読み方」がないとデータベースとして機能しないのだが、A君にはその読み方がほとんどわからない。フルネームや住所をどこで区切っていいかもわからない。

日本で生まれ育ち、標準的な日本人より読書量が多いであろうわたしですらも、振り仮名なしの住所・氏名の解読には苦労する。ましてや外国人では。というわけで、もとは陽気なブラジリアンのA君は、かわいそうにみるみるうちにうつ状態に陥った。悩みに悩んだ末、ついに母国に帰ることを決心し退職届をだしたところ、もとの陽気なA君に戻った。わたしがその会社に派遣されたのは、取り急ぎA君の仕事をいったん引き継ぐためだった。

次に前者の「言語に対する強い母国語感覚」のことだが、これを考えるために最初に引用した新聞記事の中ほどの一部を引用してみよう。

だが、田中昭という名前を「田」「中昭」と書き写すなど、姓と名の区分がつかないミスが多発。社保庁は全員日本人にするよう要望し、1月末までだった派遣は12月20日で打ち切った。誤記された記録は修正したという。


このくだりを読んだ多くの日本人はあきれ返っただろう。なぜ、「田中昭」が「田中 昭」と判断できないのか? こんなことは当たり前ではないのか?、と。しかし当たり前に「田中 昭」と判断できるというのは、実はかなりすごいことだ。

わたしたちは「田中」姓がかなりよくある苗字だということを知っている。だからまずほとんど疑念を持たず、姓は「田中」だと確信する。しかし外国人にはわからない人が多い。

それからもう少し注意深く考える人も、「田中」ではない可能性を考える。田英夫氏に代表されるように「田」という姓も存在する。

そこで姓としての「田」の可能性を考えた場合、ここで判断の基準となるのは「昭」という感じだ。わたしたちはこれまでの経験から、昭和生まれに「昭」一文字の「アキラ」さんが多いことを知っている。一方、「中昭」という名はほとんどか、おそらくはまったく見たことがない。そこからこの人物の名前が99%の確率で「田中 昭」であり、しかもかなりの高率で「タナカ アキラ」であろうと判断する。

しかしながら、ここで「中昭」という名づけが不可能というわけではない。わずかな可能性だが「タダハル」「タダアキ」「ノリアキ」「ヨシアキ」「ヨシハル」等の可能性がある。

「田中昭」以外の別の人名でも考えてみよう。

「古谷野大」という氏名が書かれていたとするとする。これは昔、わたしが実際に「どう切るのか」「どう読むのか」とちょっと迷ったことのある名前だ。

「野大」という名はあまり聞かないので、「古谷野 大」である可能性が高い。姓が「古谷野」だとすると読みは複数ある。「こやの」「ふるやの」「こたにの」「ふるたにの」のどれかであろう。

苗字が「古谷野」だとするといわゆる「下の名前」が「大」が名前で、この場合には「だい」「まさる」「たけし」「はじめ」「たかし」「ひろし」「ふとし」「ゆたか」等の読みが考えられる。お役所は名前に使う漢字の種類にはうるさくても(人名漢字・常用漢字)、名前に使った漢字の読み方には結構ルーズだから、他にもいろいろ読み方があるかもしれない。

しかしながら「古谷」という姓もかなり多く存在するので、「古谷 野大」である可能性も完全には捨てきれない。この場合には、「こや」「ふるや」「ふるたに」等の読みが考えられる。(また逆に「フルタニ」とカナで書かれた姓があったら、その漢字はこの「古谷」のほか「旧谷」「布留谷」である可能性がある。)

「野大」という名は一般的な漢字の組み合わせではないものの、「広い野原のように大きくな人間になって」との意味から名づけられる可能性がないわけではない。このばあいの読み仮名として「なおひろ」や「ひろはる」あたりが考えられる。

そのとき、わたしは直感的に「古谷野大」は「古谷野 大」であり、読み方は「コヤノ」だと判断した。中学時代の同級生に「コヤノ」と読む「古谷野さん」がいたため、この読み方が普通だと思っていたためだ。でも白状すると、実際は「フルヤノ」さんだった。

人の名前は難しいのである。それを間違いなく写すのは高時給に値する。今回、派遣されたのが外国人だった理由は、おそらく時給が日本人の基準から考えるとあまりにも安かったとういうことがありそうだが、転記ミスが許されないものの転記の仕事には、通常より高い報酬を支払うべきであろう。


ところで、わたしが見たかわいそうなA君の話だが、彼の退社後に彼が入力した箇所をみたら「武田薬品」が「ブダヤクヒン」に、担当者名の「服部」が「フクブ」なっていた。そりゃあ、故郷に帰りたくもなるよね。

阪神・淡路大震災から13年。そのときわたしがいた場所、していたこと。

2008-01-17 23:13:43 | ニュース
阪神大震災から13年、追悼式で静かな祈りささげられる


2008年01月17日10時42分
 17日午前5時46分。6434人が亡くなった阪神大震災の被災地は、地震発生からちょうど13年となる鎮魂の朝を迎えた。各地で追悼行事が開かれ、静かな祈りがささげられた。
(asahi.com)



アメリカ人のある一定の年齢以上の人の会話の共通の話題に「ジョン・F・ケネディが暗殺されたときに、君は何をしていたのか? (あるいは「どこにいたか?」)」というのがある。あの暗殺事件は誰にとってもショックなことであり、その結果、誰もがそのときにどこで何をしていたのかを覚えているのだそうだ。

多くの日本人にとって、阪神・淡路大震災もそのような衝撃的な出来事だったと思う。わたしもあの地震の時に、どこで何をしていたかを覚えている。




あれはたしか、わたしが当時にあった某米系証券会社に派遣されていたときのことで、この証券会社での派遣期間の最終週の火曜日だったと記憶している。

当時この会社の日本支店があった場所はアークヒルズ。わたしの勤務時間は9:30AM~6:30PM。毎朝ヨガとダンベル・エクササイズをするために、当時の起床は5:30AM。朝、家を出るのは8:15AM。ふくしま家の朝は、ここ40年ほどTBSラジオをかけっぱなしにしながらの朝食で始まる。というわけで、この日の朝、わたしの耳にも「関西地方で大きな地震があって、負傷者が出ているらしい」というニュースがラジオから入ってきてはいた。しかしわたしが家を出るときには、まだ被害の詳細が伝わってきていない状態だった。地震が起こったのは5:46AM。だから、わたしが家を出るまでにすでに2時間半たっていたのだが。

神戸でかなりの被害が出ているらしいと感じたのは、会社についてからだ。オフィスで最初に飛び込んできた話は「神戸で地震があり、そのせいで大証(=大阪証券取引所)の前場は休場になった」という、まことに証券会社らしいものだった。追って「全日急場になった」という話が伝わってきた。

が、わたしのいるところはトレーダーたちとはフロアが異なり、かつ、荘厳な装飾(悪趣味ともいえる)に縁取られた廊下の奥の投資銀行部。M&Aを扱うところだから、他の部署ほどはその日の相場に影響されない。というわけで、その日の仕事中はそれ以外の情報は入ってこなかった。というより、実は東京には、なかなか正しい情報が入ってこなかったのである。

その日、この地震の情報に不足していたのはわたしばかりでなく、同じくTVやラジオからの情報に頼らざるを得なかった永田町も霞ヶ関も同様だった。情報の少なさゆえに、当時の村山政権の対応は後手後手に回り、厳しく批判された。しかし当初はそのぐらい得られる情報が少なかったのであり、あの時点では別の政権であっても似たようなものになってしまっていただろう。

この地震の被害が本当に大きなものだと知ったのは、夜帰宅してTVニュースをみてからことだ。地震が起こったのは午前5時46分ごろ。倒壊した建物だの、橋脚が折れて傾いた高速道路だの、あちらこちらが燃えている街の映像だのをみてショックを受けた。その後、テレビもラジオもしばらくは、この地震関連のニュース一色になった。

その次の週からわたしは、次の仕事である仏系証券会社の金融派生商品部に派遣された。この部署の人間は全員がフランス人。わたしが扱うシステムもフランス語表記。日本語ができるフランス人は1名だけ、中には英語が不得意な方もいて、「言葉の壁」に泣かされた。当初から1ヶ月間限定と最初からわかっていなかったら、引き受けなかった仕事だった。

この部署には、同じ証券会社の他のアジア圏の拠点のデリバティブ担当のほか、別の証券会社の香港やシンガポールに駐在するデリバティブ担当から、この部署のボスに頻繁に電話がかかってきた。

良く電話をかけてくる人の中に、ベアリングスのシンガポール支店のニック・リーソンという人がいた。なぜ彼の名前を覚えているのかというと、電話を通したフランス語や英語の固有名詞が聞き取り難いため、あらかじめ「頻繁に電話をしてくる人」の名前を唯一日本語ができるフランス人から聞きだして一覧表にし、暗記しておいたのだ。

このリーソン氏に関してご存知の方もいらっしゃるとは思うが、上流階級が経営する名門の老舗である「女王陛下の銀行」ベアリングスを、たったひとりで破産させてしまった高卒で「労働者階級出身の」トレーダーだ。(この話はのちにユアン・マグレガーに主演で映画化もされている。) 彼がベアリングスを破産させてしまった理由のひとつとして、阪神・淡路大震災で日本株が暴落してしまったことがあげられる。彼が辞表を出して海外に高飛びするのが2月末なので、わたしが彼からの電話を取り次いでいる頃、彼は損失を取り戻すためのとんでもない賭けにでながら、毎日生きた心地がしなかったのではないだろうか。

この会社をきっちり1ヶ月勤めて、米国系のメーカーに移った。このメーカーも、その次の会社(やはり米国系のメーカー)も、日本で全国展開をしていたため、当然従業員やその家族に被災した人がいた。両社とも、社内の各フロアの掲示板には、従業員やその家族の阪神・淡路大震災のお悔やみやら、被災後の後の状況やらが等がたくさん貼ってあり、面識がない方々のことながら、それらを見るたびに胸が締めつけられる思いだった。

阪神・淡路大震災が1995年1月17日。そしてそのほぼ2ヵ月後の3月20日。今度はあの地下鉄サリン事件が起こった。こちらの話は3月20日ごろに…


松下電「器」、ナショナル、パナソニック、そしてテクニクス

2008-01-14 01:00:00 | ニュース
もう周知のニュースだが「松下電器産業」という社名がなくなる。「ナショナル」というブランド名も。

ナショナル・ブランドには愛着がある。しかし、世界市場のことを考えればもっとはやくパナソニックに統一すべきだったと思う。

ナショナル・ブランドにはかなりお世話になった。わたしが最初に買った自転車は定価31,800円 (1972年) の外装5段変速のナショナル自転車だし、最初に買ったラジカセもトランシーバ型ワイヤレスマイク付と3バンドがうれしい定価39,800円 (1975年)のナショナルの「音のマック(MAC)」 RQ-552だった。

松下電器が国内で使っていた「ナショナル」のブランド名を海外進出で使わなかったのは、すでに世界では、"National" といえば一般に米国の半導体製造企業 "National Semiconductor" (ナショナル セミコンダクター)のことになっていたからだと、大昔に聞いたことがある。

一方、松下さんの社名について、わたしは昔から常々古臭いと思っていた。松下電器の「器」の字ゆえだ。「電機」(電気機械)ではなく「電器」(電気器具)というところ。だから社名そのものについては「松下」はともかく「電器」のほうが好きではなかった。(松下さんごめんなさい。)

ところでナショナルで思い出すのは、あの歌だ。
みんな 家(うち)中 なんでもナショナル

ついでに電気がらみでもうひとつあげると
みんなみんな東芝 東芝のマーク


そう、かつての日本企業は「自分の会社の同じ製品を、できるだけ多くの人に、できれば全員に、使ってもらう」ことを無上の喜びとしていた。言い換えれば市場占有率命で、利益率は二の次みたいだった。「一部の富裕層に売る」とか「シェアよりも利益率が大事」なんてのは、かつての日本型企業ではあまりみられなかった。炊飯器ひとつとっても、高いものと安いものに二極化している現在の市場を見ると、つくづく時代が変わったことを実感する。

そういえば松下さんには、かつて「テクニクス(Technics)」というオーディオブランドがあった。赤い帽子にヘッドフォンのブルドッグのTVCM覚えているんだけれど。「いい音ワン UO-Z いい音ウー UO-Z テクニークス~」って。

…わたしも古いな。




追記:そういえば定価31,800円のスポーツタイプのナショナル自転車は、父の会社がナショナル自転車を取り扱っている関係で、割引で19,800円で購入した。長年こつこつと貯めてきたお年玉をすべてつぎ込んだ。しかしわたしが乗るより父が乗り回し、ついには父がどこかに駐輪中に盗まれてしまった。

父よ、この自転車をわたしに強力に勧めたのは、自分が外装五段変速を乗り回すためだったのね(涙)



ベーゼンドルファーやぁ~い

2007-11-29 00:12:15 | ニュース
ヤマハ、ピアノ名門ベーゼンドルファー買収へ

2007年11月28日18時50分
 ヤマハは28日、オーストリアの世界的ピアノメーカー、ベーゼンドルファー(本社・ウィーン)の買収に向け、優先交渉権を得たことを明らかにした。ヤマハが全株式を取得する方向で最終調整している。
(asahi.com)


世界の三大ピアノといえば、スタインウェイ (Steinway & Sons) (ドイツ・ハンブルクとアメリカ・ニューヨーク)、ベーゼンドルファー (Bösendorfer) (オーストリア・ウィーン)、ベヒシュタイン (C.Bechstein) (ドイツ・ザクセン及びベルリン)。

そのひとつベーゼンドルファー社の身売りのニュースは、ここ数日世界中のピアノマニア (?) をやきもきさせていたが、ついに有力候補だった日本のヤマハが買うことがほぼ決まったらしい。ヤマハが買収することが良いのか悪いのかは現時点ではわからないが、あの独特のウィンナトーンが存続することを祈ろう。

1828年創業のベーゼンドルファーのピアノは世界中のピアノ弾きの憧れでありながら、手作りゆえに量産が不可能で大赤字を計上。そのため1966年にはアメリカのキンバル社に売られたものの、2002年にオーストリアの銀行グループが自国文化の誇りをかけて買い戻した。…んが、買い戻したもののやはり大赤字。やっぱり生産台数の少なさが響いたのかしらん。調律師も少なそうだし。

「一度でいいからベーゼンドルファーを弾いてみたい」っていう人は、ピアノを弾いたことのある人なら世界中にかなりいるだろうし、著名なピアニストたちのお気に入りのピアノでもある。実際、ベーゼンドルファーの著名人オーナーのリストに名を連ねている面々は相当なものだ。アルファベット順なので、あのABBAが最初に名を連ねているし、リチャード・ブランソンの名を見たところで、一瞬白目になったが。

特にあの97鍵(普通は88鍵)のフルコンサートグランドピアノ Model 290 "Imperial" (インペリアル) なんて憧れだと思う。でもベーゼンドルファーは「あまり上手くない人が弾いても、ピアノ自体がすばらしいためにそれなりに良い音が出る」という類のものではなく、ゆえにわたしのような素人さんには敷居が高い。

最初に書いたように、ベーゼンドルファーの音は「ウィンナトーン」と言われている。この会社のピアノは、たとえばスタインウェイとは音の鳴らし方が異なっている。

スタインウェイはピアノの筐体の金属フレームで音を鳴らすようにできていて、「鉄が鳴る」といわれる。一方、ベーゼンドルファーは筐体全体を鳴らすようにできていて、「箱が鳴る」といわれる。この箱鳴りが独特のウィンナトーンを出す仕組みのひとつらしい。

『至福のピアニッシモ』というのも、ベーゼンドルファーの音についてしばしば形容される表現だ。もちろん大きい音も出るのだけれど、ピアニッシモをきれいに出したときの美しさは格別らしい。ここでわざわざ「きれいに出したときの」と書いているのは、きれいなピアニッシモを出すのは結構難しいからだ。

作品や作曲家によってスタインウェイとベーゼンドルファーを使い分けていたフリードリヒ・グルダ(1930?2000)によれば、ベーゼンドルファーの音とは、

豊かでまろやかで、やわらかくて、そしてちょっと甘いんだ。まさにウィーンの音だよ。
『グルダの真実―クルト・ホーフマンとの対話』 (田辺秀樹訳、洋泉社、1993年)


だそうである。そういう音を出すピアノを、ヤマハさんにはいじって欲しくない。たとえそのせいで採算に合わなくなるにしろ。

ヤマハさんに期待することは、ベーゼンドルファーの音をサンプリング音源に用いた電子ピアノやシンセサイザー等の販売。ベーゼンドルファーの音が入っているクラビノーバが出たら1日1食に食費を切りつめてでも買っちゃうよ。本物と違って、弾けばそれなりの音がでるだろうから。本物のベーゼンドルファーは、たとえ「無料で差し上げます」って言われても受け取れない。近所にピアノ騒音を撒き散らすことになるし、第一、家の床がピアノの重みに耐えかねて抜けるからだ。


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注:1980年~1990年までのグルダの言葉をまとめた『グルダの真実』で、彼はピアノの使い分けについて「シューベルトやヨハン・シュトラウスの曲など、ウィーン的な性格の曲を弾く場合は間違いなくベーゼンドルファー。ベートーヴェンのソナタはウィーンで書かれていてもインターナショナルな響きがするのでスタインウェイ。モーツァルトについては、いろいろ試してみたがいまだにどちらが良いのかわからず、またスタインウェイで試してみたいと思っている」という趣旨の発言をしている。

とはいえ、1984年録音のベートーヴェンの最後のピアノソナタでは、ベーゼンドルファー・インペリアルを使用。そして、かの有名な1968年のAmadeo盤のベートーヴェンのソナタ集は、どちらを使ったのかの情報が錯綜。
また、先日第2集が発売された1982年録音のモーツァルトのピアノソナタ集にはベーゼンドルファー・インペリアルを使用しているが、ピアノとクラビノーバを使った1999年のグルダ最後のモーツァルトのソナタの録音では、KV 331をスタインウェイで弾いている。