『ミスト』を見てきました。
この映画は、人間の意思を前面に出しすぎると(結果を求めるということで“実”でしょうか)、ひたすら神にすがる信仰(“虚”でしょう)に及ばない、ということを暗に言っているのではないかと思えました。
(1)全般について
この作品については、Yahooの「作品ユーザーレヴュー」などを見ると、批判的な感想が随分と掲載されているものの、逆に絶賛する映画評論家も多いようです。
例えば、
a.前田有一氏……90点
・この映画は、「必見の衝撃作であ」り、「まぎれもない傑作」で、「一度は見ておくことを強くすすめたい」と、短い文章の中で3度も絶賛の言葉を重ねています。
・特に、「本作は、原作とは異なる結末を持つ」が、「この結末は凄まじいなんてものじゃない。もちろん、原作をはるかに超えている。それは、インパクトの意味で凌駕したというだけでなく、テーマがはっきりしたという点で優れたものと私は評価している」ということで、結末の描き方を一番に評価しています。
・前田氏のこの評は、総じて褒め過ぎではないかと思えるところです。
b.“つぶあんこ”氏……92点
・「良かれと思ってやった行為が全て裏目に出てしまう、徹頭徹尾の底意地の悪さ、人が思い込んでいる正義や善意など、見方を変えれば独りよがりでしかないと突きつける展開のいちいちは、あまりに憎らしく秀逸」だとし、「全てが意地悪く計算され尽くした、手堅く入念な作り込みが素晴らしい」と述べていますが、私としてはその見解に賛成です。
c.粉川哲夫氏……四つ星(最高が五つ星)
・「この世の終わりのようなパニックが起こったとき、集団がどう動くかが、実によく描かれている。しかも、この20年あまりのアメリカで起こったことを頭においてこの集団の動きを見ると、なおさら面白い。ここに登場するスーパーマーケットは、まさにアメリカ合衆国の縮図だ」との見解には賛意を表します。
(2)ラスト・シーンについて
a.評論家の見解は、この映画全般についておおむね高く評価しており、特に異を立てる必要はないと思われます。
b.問題は一にかかってラストシーンにあります。
・Yahooの「作品ユーザーレヴュー」を見ると、「なんとも後味の悪い作品でした。「観なきゃ良かった」という思いでいっぱいです。最後の最後に奈落の底に突き落とされたようで観ていて辛かったですね」とか、「途中まではいろいろな映画のパクリを散りばめて、まあそれなりに面白かったが、最後がまったくいただけない」、「私の4つくらい離れた席で鑑賞していた人が『衝撃のラスト』を観て漏らした言葉。「え~ うそぉ~....」。私も声こそ出さなかったけれど、同じように思っていました」といった感想で溢れかえっています。
・要するに、この映画を評価しない一般の人たちは、ラスト・シーンに大きな問題があると言っています。逆に、この映画を高く評価する人たちは、上記イからもおわかりのように、このラスト・シーンの描き方を絶賛するのです。
c.物語は、あらまし次のようです。
主人公たちが、湖の近くのスーパーマーケットで買い物をしているときに、突然あたり一面濃い霧に覆われてしまい、暫くするとその中に異生物(「グリーンフィールズ」に出てくるような巨大な怪物など―どのSF映画でも似たような怪獣が出てくるものだなと思いました―)が潜んでいることがおぼろげに分かり、次々に人が襲われていきます。スーパーの中にいる人々は、なんとか異生物の侵入を防いでいるのですが、いつまで防護できるか危うくなって来ます。
瀬戸際に追い詰められると、人々は一定のグループを作り、分派行動に走りだします。
その中の弁護士を中心とするグループ(いわば知性派)は、そんな異性物は存在するはずがないとして早い段階で外に出てしまいますが、おそらく彼らの襲撃にあって全滅してしまいます(映画には映し出されませんが)。
狂信的なキリスト教徒の女性を中心とするグループ(いわば狂信派)は、これは神の怒りだから、いけにえを捧げつつ神に祈るしかないと主張します。
3番目が主人公を中心とするグループ(いわば行動派)です。彼らは、座して死を待つよりもなんとか外部との接触を図って救援を頼もうとします。、そこで、スーパーを出てその前の駐車場にある車まで辿りつき、外部への脱出を図ります。ですが、ガス欠で車が途中でストップしてしまいます。
d.ここからが問題なのです。このままだと異生物に発見されて殺されてしまう、それよりも潔くここで死のうということになるのです。ところが、主人公が持っているピストルには弾丸が4発しかないにもかかわらず、車に乗車しているのは全部で5人。そこで、主人公は、買い物に連れてきていた自分の息子を含めて4人を射殺して(それぞれの同意の下に)、自分も別の手段で死のうと車の外へ出ます。そのとき、霧の中から現れたのが、救出に来た軍隊だったというわけです。
要するに、何もせずに狂信的な女性のいうとおりにスーパーの中で待っていれば、あるいはこの軍隊に救された可能性が高いのです。自分を過信したがために、最悪の結果を招いてしまったということになるのでしょう。
e.初めは私も、このシーンを見て怒りに駆られました。確かに、ガス欠の車の中でジッとしていれば異生物に襲われる可能性があるかもしれません、だとしても、あくまでも生き残る可能性を求めて、外に出て皆で何か方法がないか探す努力をするのではないか、1%の可能性でもあればそれをトコトン追及するのではないか、それをせずにいとも簡単に自裁してしまうなんて考えられない、異生物に殺されるよりも潔く自裁すべきだとアメリカ人は考えるのだろうか、こんな映画は駄目な映画ではないか、などと思いました。
f.しかしながら、暫くすると考えが変わりました。最悪の事態の中でも生き抜く方策をあくまでも英雄的に求めるというのは、従来からのハリウッド映画のお馴染みのパターンで、そんなものをここで見せられても、結局はナーンダということになってこの映画は簡単に忘れられてしまうだろう、それよりも、こうした終わり方をして、自分の意思だけを頼りに出来もしないことを追求するのは問題が多いということを観客に訴えるという方法もあるのではないか、特に対テロ戦争の泥沼に入り込んでいるアメリカにおいては、こうした映画の持つ意味は大きいのではないのか、などです〔“実”(救出→民主主義国家の樹立)を求めて“虚”(信仰→イスラム原理主義)を倒して行動しても―3番目のグループの一員が狂信的な女性を射殺してしまいます―、結局は空しい結果(→泥沼化した対テロ戦争)しか得られない、ということになるのでしょうか〕。
観客の方も、賛否はともかく、主人公たちはどうすべきだったのか、これでよかったのかといつまでも考え続けることになるでしょう。
g.そうしてみると、初めは何をいっているのかと思った前田氏の次のような評も、一定の意味があるのではと思えてきます。「『ミスト』を見ると、観客も映画を作ってきた人々も、神に対しいかに傲慢であったか気づかされる」のであって、「神からみれば人間などとるに足らぬ存在であ」るにもかかわらず、「本来、神にしか許されない裁きを、キミたちは無意識のうちにおこなっていたんだよと、この映画は突きつけてくる」と述べています。
「裁き」に対応することが映画で描かれていたのかどうか問題はあると思いますが〔さらに、「我々は」と書けば済むところを、「観客も映画を作ってきた人々も」などとわけのわからない表現もみられますが〕、映画の言わんとしているところを鋭く突いているのかもしれません(同じ原作者の「グリーンマイル」―今回の映画と同じ監督がこの作品も映画化しています―を読むと、黒人死刑囚のコーフィーがキリストの生まれ変わりのごとくに描かれていますし!)。
加えて、劇場用パンフレットを見ると、狂信的キリスト教徒役のマーシャ・ゲイ・ハーデンが、「私のセリフは全部、聖書からの引用です」と述べているところからも、こうした解釈があるいは的を得ているのかもしれません。
h.ただし、前田氏が悪乗りして、「キリスト教の発想こそが、民主的な司法制度、とくに懲役というシステムを発明した」とか、「人間が犯した罪を人間ごときが裁いてはいけない=結局のところ神しか裁けないのだから、悪いことをした奴はとりあえず一時的に隔離した上で、あとで社会復帰させてやりましょう(許してやろう)、というわけだ。こういうアイデアは一神教の宗教社会の中でこそ生まれ、容認される」といった単純なお説教を述べるに至っているのは問題ですが。
こういう発想に対する反論はネット上でいくつも見られますからここでは取り上げませんが(例えば、http://blog.livedoor.jp/taka0219j/archives/2006-10.html「懲役刑の歴史」)、映画評の中に特定の宗教的信念を紛れ込ませている感じがして嫌悪感を持ちました〔あるいは、西欧優位の変形と見るべきで、取り上げるに値しないのかもしれませんが〕。
i.なお、S・キングの原作を見てみると、最後の文章は次のようです〔ハヤカワ文庫『闇の展覧会』所収〕。
「これから寝にゆく。その前にまず、息子にキスをして、彼の耳に二つの言葉をささやく。……そのひとつは希望」。
このお話全体は、最後にたどりついたレストランで主人公が書いた「記録」ということになっています。末尾に直前のところに、「カウンターの上に置いていくつもりだ。たぶんだれかが見つけて読んでくれるかもしれない」とありますから、そしてそれ以上書き継がれてはいませんから、主人公たちは結局は生き残れなかったと推測されます。
にしても、ラストが「絶望」そのものの映画とは180度異なる結末と思えます。
なお、末尾に近い所に、車に「乗っているのは4人。もしその必要が襲ってきたら、私自身の分は何かべつの方法を見つけ出すしかない」(P.375)とあり、原作でも映画の結末と同じことは想定していたと思われますが、逆に、「“私たちが目覚めたとき、ようやく州兵が救援にやってきた”というような結末はない」(P.385)とも書いてあり、州兵どころか戦車で登場する映画の結末とは大違いではあります!
この映画は、人間の意思を前面に出しすぎると(結果を求めるということで“実”でしょうか)、ひたすら神にすがる信仰(“虚”でしょう)に及ばない、ということを暗に言っているのではないかと思えました。
(1)全般について
この作品については、Yahooの「作品ユーザーレヴュー」などを見ると、批判的な感想が随分と掲載されているものの、逆に絶賛する映画評論家も多いようです。
例えば、
a.前田有一氏……90点
・この映画は、「必見の衝撃作であ」り、「まぎれもない傑作」で、「一度は見ておくことを強くすすめたい」と、短い文章の中で3度も絶賛の言葉を重ねています。
・特に、「本作は、原作とは異なる結末を持つ」が、「この結末は凄まじいなんてものじゃない。もちろん、原作をはるかに超えている。それは、インパクトの意味で凌駕したというだけでなく、テーマがはっきりしたという点で優れたものと私は評価している」ということで、結末の描き方を一番に評価しています。
・前田氏のこの評は、総じて褒め過ぎではないかと思えるところです。
b.“つぶあんこ”氏……92点
・「良かれと思ってやった行為が全て裏目に出てしまう、徹頭徹尾の底意地の悪さ、人が思い込んでいる正義や善意など、見方を変えれば独りよがりでしかないと突きつける展開のいちいちは、あまりに憎らしく秀逸」だとし、「全てが意地悪く計算され尽くした、手堅く入念な作り込みが素晴らしい」と述べていますが、私としてはその見解に賛成です。
c.粉川哲夫氏……四つ星(最高が五つ星)
・「この世の終わりのようなパニックが起こったとき、集団がどう動くかが、実によく描かれている。しかも、この20年あまりのアメリカで起こったことを頭においてこの集団の動きを見ると、なおさら面白い。ここに登場するスーパーマーケットは、まさにアメリカ合衆国の縮図だ」との見解には賛意を表します。
(2)ラスト・シーンについて
a.評論家の見解は、この映画全般についておおむね高く評価しており、特に異を立てる必要はないと思われます。
b.問題は一にかかってラストシーンにあります。
・Yahooの「作品ユーザーレヴュー」を見ると、「なんとも後味の悪い作品でした。「観なきゃ良かった」という思いでいっぱいです。最後の最後に奈落の底に突き落とされたようで観ていて辛かったですね」とか、「途中まではいろいろな映画のパクリを散りばめて、まあそれなりに面白かったが、最後がまったくいただけない」、「私の4つくらい離れた席で鑑賞していた人が『衝撃のラスト』を観て漏らした言葉。「え~ うそぉ~....」。私も声こそ出さなかったけれど、同じように思っていました」といった感想で溢れかえっています。
・要するに、この映画を評価しない一般の人たちは、ラスト・シーンに大きな問題があると言っています。逆に、この映画を高く評価する人たちは、上記イからもおわかりのように、このラスト・シーンの描き方を絶賛するのです。
c.物語は、あらまし次のようです。
主人公たちが、湖の近くのスーパーマーケットで買い物をしているときに、突然あたり一面濃い霧に覆われてしまい、暫くするとその中に異生物(「グリーンフィールズ」に出てくるような巨大な怪物など―どのSF映画でも似たような怪獣が出てくるものだなと思いました―)が潜んでいることがおぼろげに分かり、次々に人が襲われていきます。スーパーの中にいる人々は、なんとか異生物の侵入を防いでいるのですが、いつまで防護できるか危うくなって来ます。
瀬戸際に追い詰められると、人々は一定のグループを作り、分派行動に走りだします。
その中の弁護士を中心とするグループ(いわば知性派)は、そんな異性物は存在するはずがないとして早い段階で外に出てしまいますが、おそらく彼らの襲撃にあって全滅してしまいます(映画には映し出されませんが)。
狂信的なキリスト教徒の女性を中心とするグループ(いわば狂信派)は、これは神の怒りだから、いけにえを捧げつつ神に祈るしかないと主張します。
3番目が主人公を中心とするグループ(いわば行動派)です。彼らは、座して死を待つよりもなんとか外部との接触を図って救援を頼もうとします。、そこで、スーパーを出てその前の駐車場にある車まで辿りつき、外部への脱出を図ります。ですが、ガス欠で車が途中でストップしてしまいます。
d.ここからが問題なのです。このままだと異生物に発見されて殺されてしまう、それよりも潔くここで死のうということになるのです。ところが、主人公が持っているピストルには弾丸が4発しかないにもかかわらず、車に乗車しているのは全部で5人。そこで、主人公は、買い物に連れてきていた自分の息子を含めて4人を射殺して(それぞれの同意の下に)、自分も別の手段で死のうと車の外へ出ます。そのとき、霧の中から現れたのが、救出に来た軍隊だったというわけです。
要するに、何もせずに狂信的な女性のいうとおりにスーパーの中で待っていれば、あるいはこの軍隊に救された可能性が高いのです。自分を過信したがために、最悪の結果を招いてしまったということになるのでしょう。
e.初めは私も、このシーンを見て怒りに駆られました。確かに、ガス欠の車の中でジッとしていれば異生物に襲われる可能性があるかもしれません、だとしても、あくまでも生き残る可能性を求めて、外に出て皆で何か方法がないか探す努力をするのではないか、1%の可能性でもあればそれをトコトン追及するのではないか、それをせずにいとも簡単に自裁してしまうなんて考えられない、異生物に殺されるよりも潔く自裁すべきだとアメリカ人は考えるのだろうか、こんな映画は駄目な映画ではないか、などと思いました。
f.しかしながら、暫くすると考えが変わりました。最悪の事態の中でも生き抜く方策をあくまでも英雄的に求めるというのは、従来からのハリウッド映画のお馴染みのパターンで、そんなものをここで見せられても、結局はナーンダということになってこの映画は簡単に忘れられてしまうだろう、それよりも、こうした終わり方をして、自分の意思だけを頼りに出来もしないことを追求するのは問題が多いということを観客に訴えるという方法もあるのではないか、特に対テロ戦争の泥沼に入り込んでいるアメリカにおいては、こうした映画の持つ意味は大きいのではないのか、などです〔“実”(救出→民主主義国家の樹立)を求めて“虚”(信仰→イスラム原理主義)を倒して行動しても―3番目のグループの一員が狂信的な女性を射殺してしまいます―、結局は空しい結果(→泥沼化した対テロ戦争)しか得られない、ということになるのでしょうか〕。
観客の方も、賛否はともかく、主人公たちはどうすべきだったのか、これでよかったのかといつまでも考え続けることになるでしょう。
g.そうしてみると、初めは何をいっているのかと思った前田氏の次のような評も、一定の意味があるのではと思えてきます。「『ミスト』を見ると、観客も映画を作ってきた人々も、神に対しいかに傲慢であったか気づかされる」のであって、「神からみれば人間などとるに足らぬ存在であ」るにもかかわらず、「本来、神にしか許されない裁きを、キミたちは無意識のうちにおこなっていたんだよと、この映画は突きつけてくる」と述べています。
「裁き」に対応することが映画で描かれていたのかどうか問題はあると思いますが〔さらに、「我々は」と書けば済むところを、「観客も映画を作ってきた人々も」などとわけのわからない表現もみられますが〕、映画の言わんとしているところを鋭く突いているのかもしれません(同じ原作者の「グリーンマイル」―今回の映画と同じ監督がこの作品も映画化しています―を読むと、黒人死刑囚のコーフィーがキリストの生まれ変わりのごとくに描かれていますし!)。
加えて、劇場用パンフレットを見ると、狂信的キリスト教徒役のマーシャ・ゲイ・ハーデンが、「私のセリフは全部、聖書からの引用です」と述べているところからも、こうした解釈があるいは的を得ているのかもしれません。
h.ただし、前田氏が悪乗りして、「キリスト教の発想こそが、民主的な司法制度、とくに懲役というシステムを発明した」とか、「人間が犯した罪を人間ごときが裁いてはいけない=結局のところ神しか裁けないのだから、悪いことをした奴はとりあえず一時的に隔離した上で、あとで社会復帰させてやりましょう(許してやろう)、というわけだ。こういうアイデアは一神教の宗教社会の中でこそ生まれ、容認される」といった単純なお説教を述べるに至っているのは問題ですが。
こういう発想に対する反論はネット上でいくつも見られますからここでは取り上げませんが(例えば、http://blog.livedoor.jp/taka0219j/archives/2006-10.html「懲役刑の歴史」)、映画評の中に特定の宗教的信念を紛れ込ませている感じがして嫌悪感を持ちました〔あるいは、西欧優位の変形と見るべきで、取り上げるに値しないのかもしれませんが〕。
i.なお、S・キングの原作を見てみると、最後の文章は次のようです〔ハヤカワ文庫『闇の展覧会』所収〕。
「これから寝にゆく。その前にまず、息子にキスをして、彼の耳に二つの言葉をささやく。……そのひとつは希望」。
このお話全体は、最後にたどりついたレストランで主人公が書いた「記録」ということになっています。末尾に直前のところに、「カウンターの上に置いていくつもりだ。たぶんだれかが見つけて読んでくれるかもしれない」とありますから、そしてそれ以上書き継がれてはいませんから、主人公たちは結局は生き残れなかったと推測されます。
にしても、ラストが「絶望」そのものの映画とは180度異なる結末と思えます。
なお、末尾に近い所に、車に「乗っているのは4人。もしその必要が襲ってきたら、私自身の分は何かべつの方法を見つけ出すしかない」(P.375)とあり、原作でも映画の結末と同じことは想定していたと思われますが、逆に、「“私たちが目覚めたとき、ようやく州兵が救援にやってきた”というような結末はない」(P.385)とも書いてあり、州兵どころか戦車で登場する映画の結末とは大違いではあります!