『ブルーに生まれついて』を渋谷のル・シネマで見ました。
(1)予告編で見て興味を惹かれたので、映画館に行ってきました。
本作(注1)の冒頭では、画面の真ん中にトランペットが大写し。
「1966年、イタリアのルッカ」の字幕。
男が床に倒れていて、その前にあるトランペットを見ます。
すると、その中から大きなクモが現れます。
倒れている男〔チェット・ベイカー(イーサン・ホーク)〕は、トランペットに手を伸ばします。
実は、そこは刑務所の中で(注2)、看守が「ハリウッドからのお客さんだよ」と言って、映画プロデュサー(movie director)を連れてきます。
次の場面では、「1954年 ニューヨーク市 バードランド(注3)」の字幕。
チェットがファンの女性たちに囲まれてサインを求められ、「俺とマイルス・デイヴィスとどっちが好きだ?」などと言っています。
楽屋から客席を見ると、マイルス・デイヴィス(ケダール・ブラウン)らが来ています。
そして、司会が、「カリフォルニアからやってきたジャズ界のジェームス・ディーン、クールのプリンス」などと紹介すると、サングラスを付けたチェットが、彼のクワルテットとともに舞台に立ち、演奏を始めます。
演奏し終わると、観客から、「良いぞ」の声がかかり、チェットも「ありがとう、愛している」と答えます。
続いて、マイルス・デイヴィスやディジー・ガレスピー(ケヴィン・ハンチャード)が演奏し、それをチェットは席に座って聴きますが、しばらくすると、隣りに座った黒人の女とホテルの部屋に戻ります。
その女は、「まだやったことがないなんて信じられない。随分と真面目ね」と言いながら、麻薬を溶かし始め、それをチェットに注射をします。
そこへチェットの妻・イレーネ(カルメン・イジョゴ)が戻ってきます。
彼女は、「こうなるとわかってた。全部持って出ていって」と言います。
ふと机の上を見ると、注射器があります。
彼女が「それは何なの?マイルスのせい?」と言いますが、彼女の膝にしがみついているチェットは、「こうすると、ママの膝に戻ったみたいだ」と答えます。
次のシーンには、「1966年 ロサンゼルス」の字幕が。
そして、さっきの1954年の場面は、チェットの自伝映画の撮影風景であることがわかります。
カチンコが映り、チェットとイレーネ役の女優ジェーンが楽しそうに談笑し、監督も「アドリブは歓迎だ」などと言い、スタッフが出入りします。
こんなところが本作の始めの方ですが、さあ、これから物語はどのように展開するのでしょうか、………?
本作は、実在のジャズ・トランペット奏者のチェット・ベイカーの一時期を取り上げて劇映画として描き出したものです。彼は、大きな人気を勝ち得た時に、ドラッグが原因で前歯を折られて、演奏活動を続けられなくなりますが、必死に頑張って再度舞台に立つことができたものの、ドラッグからはついに逃れられませんでした。これが、彼を支え続けた女性とのラブストーリーの中で描かれていて、実に感動的な作品に仕上がっています。
(2)本作は、実在したチェット・ベイカーを描いている作品ながらも、フィクション的なシーンがかなり作り込まれており、むしろ劇映画としてみた方が面白いのではと思いました(注4)。
例えば、上記(1)で紹介したように、本作の始めでは、1954年の出来事が映画の撮影ということで描かれていますが、実際にはそうした映画は製作されませんでした(注5)。
なにより、本作で重要な役割を果たす女優のジェーンも実在しません(注6)。
もとより、ある人物の伝記を映画化するといっても、ドキュメンタリーではなく俳優が演じる場合には、フィクションの部分がかなりの程度盛り込まれてしまうのは当然でしょう(注7)。
あるいは程度の問題かもしれません。
でも、ジャズに全くの素人のクマネズミにしてみれば、本作がチェット・ベイカーや彼を取り巻く人々を精確に描いていようがいまいが、物語として面白ければ何の問題もないと思えてしまいます。
その上で、本作におけるチェットとジェーンとのラブストーリーは、なかなか良くできているのではと思いました(注8)。
特に、最後の方で、オクラホマにいるチェットが、バードランドの舞台に再度立つためにニューヨークに行くという肝心な時に、ジェーンは自分にも重要な舞台のオーディションがあるから一緒に行けないと言って、二人の間に亀裂が入ってしまうのですが、バードランドでチェットが演奏し始めると、そのクラブにジェーンが現れるのです。この場面にはとても感動しました(注9)。
それに本作では、主演のイーサン・ホーク自身が歌う「My Funny Valentine」とか「I’ve Never Been in Love Before」(注10)、あるいは「レッツ・ゲット・ロスト」(注11)、「虹の彼方に」(注12)、「ボーン・トゥ・ビー・ブルー」(注13)など数々の名曲が登場するのですから堪えられません(注14)。
間もなく公開される『MILES AHEAD マイルス・デイヴィス 空白の5年間』も是非見たいと思っています。
(3)森直人氏は、「いわゆる伝記映画というより、ファンによる全力のトリビュート(称賛を込めた贈り物)と受け取るべきか」と述べています。
小島一宏氏は、「全編を彩るジャズサウンドの心地よさ。映像の色彩や照明が醸し出すムード。そして、瞬きを忘れるほどの上質なシーンの数々に魅せられる」と述べています。
(注1)監督‥脚本はロバート・バドロー。
原題は『Born to Be Blue』。
なお、出演者の内、最近では、イーサン・ホークは、『6才のボクが、大人になるまで。』で見ました。
(注2)チェットは、公演先のイタリアにおいてドラッグで逮捕され、有罪判決を受けて投獄されています。
(注3)往年の名ジャズクラブ(この記事をご覧ください)。
(注4)公式サイトの「イントロダクション」には、「本作は一人の天才ミュージシャンの転落と苦悩を描くとともに、ある一人の女性との出会いによって再生する姿を描いたラブストーリー」とあります。
(注5)劇場用パンフレット掲載の菊地成孔氏によるエッセイによれば、この映画製作は実際には行われなかったものであり、従って、「本作は、この、頓挫した「ラウレンティス製作による、ベイカー伝記映画」が「製作されていた」という大胆な設定を基礎にはじまる」ということになります。
さらに、菊地氏は「本作は、一言で言うと「ベイカーの人生=伝記からの素材を自由自在に再構成させた、完全なファンタジー」」とまで述べています。
(注6)劇場用パンフレットに掲載された川口敦子氏のエッセイでは、ジェーンについて、「ベイカーの生涯を彩った無数の女性をヒントにしつつ、旺盛な創意を注入して新たに生み出されたヒロイン」と述べられています。
(注7)上記「注5」で触れた菊地氏は、イーサン・ホークの歌について、「キーがすべて完全5度低い」と述べています。
(注8)なにしろ、ジェーンは、チェットの妻・イレーネによく似ているとされ、またチェットは、ジェーンに、「トランペットばかり演っていたから、恋愛経験が少ない」などと言ったりするのです。それで、ジェーンは、麻薬を止めるように親身になって言ったり、オクラホマのチェットの実家にまで一緒に出かけるものの父親がチェットを嫌うので、近くに車を駐車してそこで暮らしたりします。
なお、ジェーンは、チェットとの会話の中で、チェーホフを引用しながら、「人が恋愛中の時に味わう感情こそ、ノーマルなものだ」などと言うほど知的な女性としても描かれています。
(注9)しかしながら、チェットは、バードランドの舞台に立つためにヘロインをやってしまい、なおかつ舞台では「許してほしい、この霧から抜け出せない僕を」「一度も恋をしたことがないんだ」などと歌うので、ジェーンは事情を悟り、涙を流し、そばにいたマネージャーのディック(カラム・キース・レニー)に、チェットから貰った大事なネックレスを渡し、「これをチェットに返して」と言って立ち去るのです〔チェットが歌う「I’ve Never Been in Love Before」の歌詞については、例えばこちらの記事を〕。
この場面は、最近見た『ベストセラー 編集者パーキンズに捧ぐ』のある場面(同作に関する拙エントリの「注16」をご覧ください)を思い出させました。
また、ひどく飛躍してしまい恐縮ながら、中島みゆきのアルバム『恋文』に収録されている「恋とはかぎらない」の歌詞の中の「24時間そばにいたいってわけじゃない/でも1番肝心な時は逢ってね」を連想してしまいました。
(注10)前者については、このサイトでイーサン・ホークが歌う映像を見ることができます。
なお、チェットが歌う2つの曲は、アルバム『CHET BAKER SINGS』に収録されています(こちらで聴くことができます)。
(注11)この曲についての本作での演奏は、こちらで聴くことができます。
(注12)この曲をチェットが演奏したものは、こちらで聴くことができます。
(注13)この曲をチェットが演奏したものは、こちらで聴くことができます)。
(注14)本作で実際にトランペットの音を出しているのは、カナダのトランペット奏者のケビン・ターコット(この記事)。
★★★★☆☆
象のロケット:ブルーに生まれついて
(1)予告編で見て興味を惹かれたので、映画館に行ってきました。
本作(注1)の冒頭では、画面の真ん中にトランペットが大写し。
「1966年、イタリアのルッカ」の字幕。
男が床に倒れていて、その前にあるトランペットを見ます。
すると、その中から大きなクモが現れます。
倒れている男〔チェット・ベイカー(イーサン・ホーク)〕は、トランペットに手を伸ばします。
実は、そこは刑務所の中で(注2)、看守が「ハリウッドからのお客さんだよ」と言って、映画プロデュサー(movie director)を連れてきます。
次の場面では、「1954年 ニューヨーク市 バードランド(注3)」の字幕。
チェットがファンの女性たちに囲まれてサインを求められ、「俺とマイルス・デイヴィスとどっちが好きだ?」などと言っています。
楽屋から客席を見ると、マイルス・デイヴィス(ケダール・ブラウン)らが来ています。
そして、司会が、「カリフォルニアからやってきたジャズ界のジェームス・ディーン、クールのプリンス」などと紹介すると、サングラスを付けたチェットが、彼のクワルテットとともに舞台に立ち、演奏を始めます。
演奏し終わると、観客から、「良いぞ」の声がかかり、チェットも「ありがとう、愛している」と答えます。
続いて、マイルス・デイヴィスやディジー・ガレスピー(ケヴィン・ハンチャード)が演奏し、それをチェットは席に座って聴きますが、しばらくすると、隣りに座った黒人の女とホテルの部屋に戻ります。
その女は、「まだやったことがないなんて信じられない。随分と真面目ね」と言いながら、麻薬を溶かし始め、それをチェットに注射をします。
そこへチェットの妻・イレーネ(カルメン・イジョゴ)が戻ってきます。
彼女は、「こうなるとわかってた。全部持って出ていって」と言います。
ふと机の上を見ると、注射器があります。
彼女が「それは何なの?マイルスのせい?」と言いますが、彼女の膝にしがみついているチェットは、「こうすると、ママの膝に戻ったみたいだ」と答えます。
次のシーンには、「1966年 ロサンゼルス」の字幕が。
そして、さっきの1954年の場面は、チェットの自伝映画の撮影風景であることがわかります。
カチンコが映り、チェットとイレーネ役の女優ジェーンが楽しそうに談笑し、監督も「アドリブは歓迎だ」などと言い、スタッフが出入りします。
こんなところが本作の始めの方ですが、さあ、これから物語はどのように展開するのでしょうか、………?
本作は、実在のジャズ・トランペット奏者のチェット・ベイカーの一時期を取り上げて劇映画として描き出したものです。彼は、大きな人気を勝ち得た時に、ドラッグが原因で前歯を折られて、演奏活動を続けられなくなりますが、必死に頑張って再度舞台に立つことができたものの、ドラッグからはついに逃れられませんでした。これが、彼を支え続けた女性とのラブストーリーの中で描かれていて、実に感動的な作品に仕上がっています。
(2)本作は、実在したチェット・ベイカーを描いている作品ながらも、フィクション的なシーンがかなり作り込まれており、むしろ劇映画としてみた方が面白いのではと思いました(注4)。
例えば、上記(1)で紹介したように、本作の始めでは、1954年の出来事が映画の撮影ということで描かれていますが、実際にはそうした映画は製作されませんでした(注5)。
なにより、本作で重要な役割を果たす女優のジェーンも実在しません(注6)。
もとより、ある人物の伝記を映画化するといっても、ドキュメンタリーではなく俳優が演じる場合には、フィクションの部分がかなりの程度盛り込まれてしまうのは当然でしょう(注7)。
あるいは程度の問題かもしれません。
でも、ジャズに全くの素人のクマネズミにしてみれば、本作がチェット・ベイカーや彼を取り巻く人々を精確に描いていようがいまいが、物語として面白ければ何の問題もないと思えてしまいます。
その上で、本作におけるチェットとジェーンとのラブストーリーは、なかなか良くできているのではと思いました(注8)。
特に、最後の方で、オクラホマにいるチェットが、バードランドの舞台に再度立つためにニューヨークに行くという肝心な時に、ジェーンは自分にも重要な舞台のオーディションがあるから一緒に行けないと言って、二人の間に亀裂が入ってしまうのですが、バードランドでチェットが演奏し始めると、そのクラブにジェーンが現れるのです。この場面にはとても感動しました(注9)。
それに本作では、主演のイーサン・ホーク自身が歌う「My Funny Valentine」とか「I’ve Never Been in Love Before」(注10)、あるいは「レッツ・ゲット・ロスト」(注11)、「虹の彼方に」(注12)、「ボーン・トゥ・ビー・ブルー」(注13)など数々の名曲が登場するのですから堪えられません(注14)。
間もなく公開される『MILES AHEAD マイルス・デイヴィス 空白の5年間』も是非見たいと思っています。
(3)森直人氏は、「いわゆる伝記映画というより、ファンによる全力のトリビュート(称賛を込めた贈り物)と受け取るべきか」と述べています。
小島一宏氏は、「全編を彩るジャズサウンドの心地よさ。映像の色彩や照明が醸し出すムード。そして、瞬きを忘れるほどの上質なシーンの数々に魅せられる」と述べています。
(注1)監督‥脚本はロバート・バドロー。
原題は『Born to Be Blue』。
なお、出演者の内、最近では、イーサン・ホークは、『6才のボクが、大人になるまで。』で見ました。
(注2)チェットは、公演先のイタリアにおいてドラッグで逮捕され、有罪判決を受けて投獄されています。
(注3)往年の名ジャズクラブ(この記事をご覧ください)。
(注4)公式サイトの「イントロダクション」には、「本作は一人の天才ミュージシャンの転落と苦悩を描くとともに、ある一人の女性との出会いによって再生する姿を描いたラブストーリー」とあります。
(注5)劇場用パンフレット掲載の菊地成孔氏によるエッセイによれば、この映画製作は実際には行われなかったものであり、従って、「本作は、この、頓挫した「ラウレンティス製作による、ベイカー伝記映画」が「製作されていた」という大胆な設定を基礎にはじまる」ということになります。
さらに、菊地氏は「本作は、一言で言うと「ベイカーの人生=伝記からの素材を自由自在に再構成させた、完全なファンタジー」」とまで述べています。
(注6)劇場用パンフレットに掲載された川口敦子氏のエッセイでは、ジェーンについて、「ベイカーの生涯を彩った無数の女性をヒントにしつつ、旺盛な創意を注入して新たに生み出されたヒロイン」と述べられています。
(注7)上記「注5」で触れた菊地氏は、イーサン・ホークの歌について、「キーがすべて完全5度低い」と述べています。
(注8)なにしろ、ジェーンは、チェットの妻・イレーネによく似ているとされ、またチェットは、ジェーンに、「トランペットばかり演っていたから、恋愛経験が少ない」などと言ったりするのです。それで、ジェーンは、麻薬を止めるように親身になって言ったり、オクラホマのチェットの実家にまで一緒に出かけるものの父親がチェットを嫌うので、近くに車を駐車してそこで暮らしたりします。
なお、ジェーンは、チェットとの会話の中で、チェーホフを引用しながら、「人が恋愛中の時に味わう感情こそ、ノーマルなものだ」などと言うほど知的な女性としても描かれています。
(注9)しかしながら、チェットは、バードランドの舞台に立つためにヘロインをやってしまい、なおかつ舞台では「許してほしい、この霧から抜け出せない僕を」「一度も恋をしたことがないんだ」などと歌うので、ジェーンは事情を悟り、涙を流し、そばにいたマネージャーのディック(カラム・キース・レニー)に、チェットから貰った大事なネックレスを渡し、「これをチェットに返して」と言って立ち去るのです〔チェットが歌う「I’ve Never Been in Love Before」の歌詞については、例えばこちらの記事を〕。
この場面は、最近見た『ベストセラー 編集者パーキンズに捧ぐ』のある場面(同作に関する拙エントリの「注16」をご覧ください)を思い出させました。
また、ひどく飛躍してしまい恐縮ながら、中島みゆきのアルバム『恋文』に収録されている「恋とはかぎらない」の歌詞の中の「24時間そばにいたいってわけじゃない/でも1番肝心な時は逢ってね」を連想してしまいました。
(注10)前者については、このサイトでイーサン・ホークが歌う映像を見ることができます。
なお、チェットが歌う2つの曲は、アルバム『CHET BAKER SINGS』に収録されています(こちらで聴くことができます)。
(注11)この曲についての本作での演奏は、こちらで聴くことができます。
(注12)この曲をチェットが演奏したものは、こちらで聴くことができます。
(注13)この曲をチェットが演奏したものは、こちらで聴くことができます)。
(注14)本作で実際にトランペットの音を出しているのは、カナダのトランペット奏者のケビン・ターコット(この記事)。
★★★★☆☆
象のロケット:ブルーに生まれついて
ただ、クマネズミは、必ずしも本作を伝記映画として捉える必要はなく、単に劇映画と見てもなかなか面白いのではと思いました。それで、ジェーンが「別れた妻エレインのリフレイン(繰り返し)」かどうかなどと言ったことは、クマネズミにとってはマアどうでもいい点でした。なにも教養を高めようと思って映画館に行くわけではなく、単なる娯楽として行くわけですから。
準主役が架空の人物となると、さすがに伝記ドラマとしては捉えづらいのですが、ジェーンは明らかに別れた妻エレインのリフレイン(繰り返し)ですね。不遇の一時期に焦点を当て、チェット・ベイカーの音楽や人間性といったイメージをくっきりと印象的に描き出した壮大なミュージック・ビデオのように感じました。
確かに、幽霊であれば、なにもドラッグに手を出して自分を盛り上げるまでもないでしょうから!
これでペット奏者のチェット・ベイカーまで非実在だったら、ラストの楽屋での彼の振る舞いは逆になっていた事でしょう。
おっしゃるように、「音楽が存在するとこうも雰囲気溢れる作品になる」と痛切に思いました。
なにしろ、チェットが歌う「My Funny Valentine」と「I’ve Never Been in Love Before」をジェーンが聴く際の態度がまるで違いますが、その心情は見ているものに痛いほど伝わってきます!
この作品は、胸を突くシーンが何か所もありました。
「挫折した天才の再生物語」と言えるのだと思いますが、音楽が存在するとこうも雰囲気溢れる作品になるのだなぁ、と。
私も「~空白の5年間」は観てみたいと思っております。